補遺4 「不変」と「不動」の大きな違い

 
この「不変」という訳語の選択一つから落合恵子Gift from the Sea をろくに読んでいないということがよくわかる。

宗教的な意味における不変は、わたしたちにとって不可能に近く、しかしわたしたちにこそ、必要なものであるのだ。(p.25)


同じ箇所を吉田健一はこのように訳している。

宗教生活で常に説かれる不動ということは、私たちにはどんなに得難くて、そしてまた、なんと必要だろうか。 (p.25,26)


「不変」 と 「不動」。
この二つの訳語の差異はおそらく多くの人にとっては取るに足らない些細な違いでしかなく、こんなことに目くじらを立てる方がどうかしていると思われるかもしれない。
だが、この 「不変」 と 「不動」 という翻訳の違いは、大して違わない似たような二つの訳語からどちらを選ぶかという単なる好みの問題だろうか。翻訳者の文体の違いというだけの話だろうか。決してそうではない。落合恵子はアン・モロウ・リンドバーグのこの著作をろくに読んでいないという話だ。


原文の表現は以下の通りである。

How much we need, and how arduous of attainment is that steadiness preached in all rules for holy living. (p.22)


この章で著者アン・モロウ・リンドバーグは、回転する車輪を比喩に用いている。
四方八方、日々の生活の様々な事柄に絶えず気を配りながらもその中心は静かに安定している、そのような理想的なあり方を、車輪と車軸によって比喩的に描いている。つまりここで著者が重視しているのは、変化しない、変っていかないことなのではなく、目まぐるしい回転の中にあっても動かない安定した中心の軸を自分の中に持っているということである。

著者はまたこの本の中で、断続性 という概念を繰り返し用いている。著者が説いていることは、変化しないこと、変らないことの重要性ではない。むしろ、変化しないなどということはあり得ない、断続性が人生の本当の姿であるというのが著者の考えるところである。著者がこの本の中で述べていることから考えれば 「不変」 という訳語の選択は全く不適切で、有り得ないものなのだ。厳しい言い方をするが、ここで「不変」 という訳語を用いているということは、落合恵子は著者の述べる 「断続性」 について満足に理解していないということであり、もっと言えば落合はこの本をごく表面的にしか読んでいない、自分の都合でしか読んでいないということを露にしている。


あるいは旧訳の吉田健一と同じ言葉を避けたいという意識が、「不動」 ではなく 「不変」 という訳語を落合に選ばせたのかもしれない。しかし原文の述べるところをできる限り伝えようと考えるなら、言葉に対しての個人的な好みは後に廻して訳語を選ばなければならない。*1 他人と違ったところを見せたい、自分らしさを出したいと考えようが、訳語としてそれより他に適当な言葉が考えられなければ、やはりそれを使うべきなのだ。だが落合恵子という人間はそれができない。

ただ落合のこの訳は、一冊全体の中で見れば間違いなく誤訳なのだが部分的にここだけを取り出して見た場合なら誤訳とは言えないというあたりで、正直なところ、ここまで取り上げなくてもと思わなくもない。だが著者アン・モロウ・リンドバーグの気持ちと溶け合うことができたなどとうぬぼれて陶酔しているような人間であれば厳しく見ないわけにはいかない。*2

落合はもっと丁寧にそして何よりもまずエゴを抑えて、原著に虚心に向き合って翻訳を行うべきなのだ。もしそれができればきっとたくさんの 「新しい発見」 を本当に得られるだろう。*3
もはや手遅れだろうが。
 
 
 

*1:落合には、言葉の意味をよく理解してないまま字面や響きやうろ覚えの曖昧な印象から安易に訳語を選択する悪癖がある。そのため参考になる訳文が既にあってもそれを間違った方向に書き変えてしまう。

*2:訳者あとがき (p.159)

*3:訳者あとがきで、「原書と照らし合わせて翻訳をすすめる中で、たくさんの 「新しい発見」 もあった」 とも落合は語っている。歪曲や捏造をまさか 「新しい発見」 と呼ぼうとは。その厚顔さには全く恐れ入る。 翻って私の場合を言えば、落合の『海からの贈りもの』に躓いたことで原著と吉田健一の訳文を精読することになり、その結果それこそ多くの新しい発見を得ることができた。もし落合がこの新訳を出していなかったら Gift from the Sea をここまで読み込むことはなかった。それは間違いない。その意味に限って落合には感謝をするべきかもしれない。「他山の石」 という言葉も実感を伴ってよく理解することができた。