補遺2 宗教的な言葉を除外する

 
これも間違いというのとはまた少し違うが、落合の翻訳は著者の志向と隔たりが大きいというかむしろ正反対であるので、やはり指摘しておくことにする。

落合恵子訳は以下の通り。
落合ははっきりと、宗教的な意味なのではない、と完全な否定で訳している。

要するに、聖者たちの言葉を借りるならば、わたしはできる限り、光と共に生きていきたい。
光と共にという言葉を、宗教的な意味で使っているのではない。(p.19)


だが原文は以下の通りである。

I want, in fact―to borrow from the language of the saints―to live “in grace” as much of the time as possible. I am not using this term in a strictly theological sense. (p.17)


吉田健一はこの英文を、厳密に神学上の意味で用いているのではない、と限定的な否定として原文に忠実に訳している。(つまり、著者は宗教的な意味あいを否定しているわけではない。)

要するに、― 聖者たちの言葉を借りるならば、― 私はなるべく 「恩寵とともに」 ある状態で生きて行きたいのである。私はこの言葉を厳密にその神学上の意味に使っているのではなくて、 (p.21)

 
吉田訳のように、《grace》 は普通 「恩寵」 と訳す。
他の箇所でも指摘できることだが、落合訳の『海からの贈りもの』では原文にある宗教的、信仰的な意味の言葉がしばしば取り除かれている。(だが著者は宗教的、信仰的な意味の言葉を多く用いている。)
多くの日本の読者にとって馴染みの少ない言葉だからそれを別の言葉に置き換えるというのはわからないことではない。だが著者はここで 《not using this term in a strictly theological sense.》、「この言葉を厳密にその神学上の意味に使っているのではなくて」 とわざわざ断っているだわけから、特にこだわらずに 《grace》 は普通に 「恩寵」 と訳せば良い。キリスト教における 「恩寵」 という言葉の意味を知らないとしても、著者が言おうとする意味はその後の文章を読めばわかるように書かれている。

「恩寵」 という言葉がキリスト教に無縁な人に解りにくいのも確かだが、それを 「光と共に」 と訳したところで字画が減り言葉づかいが一見平易になって何となくわかったような気になるというだけで、理解がより深まるわけでもない。何より、解りにくいと思うのなら訳注で 「恩寵」 の説明を設ければ良い。

落合は巻末の訳注において、無理やりこじつけてこの作品と関係のないフェミニスト達の名前や著作をたくさん並べて披露しているのだが、そんなことをしている暇があるなら他にもっと説明するべきことがたくさんあるはずだ。
例えばプロティノスエックハルトジョン・ダンブレイク。彼らに関する注を付けた方が著者アン・モロウ・リンドバーグの関心がどの辺りにあるかを理解するのに遥かに資すると考えるのだが。