補遺1 落合訳らしさ

 
[まえがき] の訳文にはさほど大きな問題はないとも言えるので取上げないつもりでいたが、あらためて一冊全体の中で見るとやはりいかにもこの訳者らしい翻訳ぶりであるので、これらもやはり指摘しておくことにする。


落合恵子訳はこのようになっている。

考えが紙の上で形をとりはじめた当初、わたしは、わたしが日常の中で経験していることは、ほかの人とまったく違っていると思っていた。というのも、わたしは、ある意味ではほかの人たちよりも自由な、またある意味でははるかに不自由な日々を送っていたから。(p.5,6)


意味はこれでちゃんと通ってはいるが、どういうつもりなのか落合は原文の(Are we all under this illusion? )という文章を省いてしまっている。訳すなら(私たちは皆そういう錯覚の下にあるのだろうか)という意味の文章である。


原文は以下の通りである。

I had the feeling, when the thoughts first clarified on paper, that my experience was very different from other people's. (Are we all under this illusion?) My situation had, in certain ways, more freedom than that of most people, and in certain ways, much less. (p.3)


ここだけを見るならば有っても無くても大した問題ではないとも言えるのかもしれない。だが落合は最後の章 (p.145) では逆に、著者が書いてもいない (誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう)という文章を捏造して著者の感慨として勝手に書き加える という全く信じ難い行為もしており、ここの削除も落合の翻訳の身勝手さの一例として見ることができる。
興味深いことに、落合が削除したアン・モロウ・リンドバーグの言葉は 「誰しもそうなのだろうか」 というためらいの言葉なのだが、落合が勝手に書き加えた言葉は 「誰でもそうだろう」 という安易な決めつけである。正反対なのだ。著者を装った落合の書き加えは一見すると似ているようだがその違いは明白であり、図らずも両者の人品の違いが露わになっている。


比較として吉田健一の訳を載せる。落合のものとは違ってこちらは正確に訳されている。

そんなふうにして、私の考えが紙の上で形を取始めたのであるが、初めのうちは、私は自分が経験したことが他の人のとは違っているという気がしていた(私たちは皆そういう感じを持っているのだろうか)。というのは、私は或る意味では他の人たちよりも自由な、そしてまた或る意味ではもっとずっと不自由な境遇に置かれていたからである。(p.7)

 
 
次の訳文も間違いというのではないが、全く意味の無い比喩表現の加筆であり、全篇を通じて見られるこの訳者の悪癖の一例として指摘しておく。

わたしと同じ入り江にたたずむ人たちへの感謝と友情を添えて、ここにわたしは、海から受けとったものを、いま海に返す。(p.7)


原文は以下の通り。

Here, then, with my warm feelings of gratitude and companionship for those working along the same lines, I return my gift from the sea. (p.5)


吉田健一訳の『海からの贈物』では次のようになっている。

それで私はここに、私と同じ線に沿ってものを考えている人たちに対する感謝と友情を添えて、海から受取ったものを海に返す。 (p.9)


原文で著者は比喩的な表現などはしておらず至って直接的に記している。
「わたしと同じ入り江にたたずむ」 という一見何となく上手いことを言っているようで実は意味がない曖昧な比喩表現は、落合の程度の低い文学趣味の現れでしかない。落合は単に 「海」 というお題で比喩を作ってみたかったに過ぎないのであり、他人の著作の中に自作の下手な詩を書き足しているような恥ずかしい行為でしかない。こんなところで自分を発揮して一体どうしようというのか。(また落合は 「入り江」 がどういうものであるか理解して言葉を用いているかも疑わしい。たぶん落合はその意味するところをよくわかっていないのに雰囲気だけでこの言葉を選んでいる。)
著者が比喩を用いず簡潔に表現しているところに、出しゃばりの訳者が勝手に自分の比喩を持ち込んで訳すような行為は到底ほめられたものではない。だがここに限らず落合の『海からの贈りもの』には、原文の直接的な表現を程度の低い胡乱な比喩表現に書き変えてしまっている訳文がしばしば見られる。
 
落合は比喩で表現するのが文学だとでも馬鹿な思い違いをしているのではないのか。