最終回 訳者あとがきに見える愚かな自己陶酔

 
率直に言って私は、原著を意図的に歪めて汚した落合の『海からの贈りもの』を少しも認めていないし、著者の言葉を蔑ろにするその愚かで身勝手な翻訳ぶりから落合恵子という作家に対して強い不信感と嫌悪感を抱いている。

落合恵子は訳者あとがきで、吉田健一訳で出版された『海からの贈物』では著者の名前の表記が 「リンドバーグ夫人」 となっていて、それがずっと気になっていたと記している。それをこの新訳に際して 「アン・モロウ・リンドバーグ」 という本来の表記に直したというのは実に結構なことだ。しかし著者の名前の表記を尊重したところで一番大事なものであるはずの著者の言葉を尊重するという考えがそもそも根本的に欠落しているのだから、一体落合は何を尊重しているのだか知れたものではない。
また落合は、著者が後年新たに書き加えた章をこの新訳で日本の読者に伝えたかったとも記している。それも大変に結構なことだ。だがその翻訳が一冊全体の中で最低の出来だという有様では、わざわざ新訳を出した意味も無い。もっとはっきり言うなら、あんなデタラメと偽りに満ちたものを著者アン・モロウ・リンドバーグの言葉として紹介するのは落合の嘘をまき散らす行為でしかなく、全く有害であり甚だ迷惑だ。
 
原文と対照して一冊を読んだ上での私の評価は次の通りだ。 落合恵子が訳した『海からの贈りもの』は、初歩的でお粗末な誤訳と日本語としてもなっていない文章、それから程度の低い文学趣味による修飾の追加、原文が理解できないと軽々しく行われる削除と加筆、そして自分のフェミニズムの立場に都合が良いようにする意図的な歪曲と改変があちこちにある。
恥というものを知らないのか、Gift from the Sea は二十数年来の愛読書だと図々しくも語る落合であるが、つまるところ落合恵子Gift from the Sea をちゃんと読んでいないし、そもそもちゃんと読もうとすらしていない。


翻訳の作業というものは著者と翻訳者との対話に喩えることもできるだろう。しかし落合恵子の翻訳ぶりから思い浮かんだのは、相手の話をちゃんと聞こうともせずに 「こういうことでしょ」 と遮っては見当外れな自分の考えばかり一方的に喋る迷惑な女の姿だ。


「訳者あとがき」を落合は次の文章で結んでいる。

翻訳の仕事をすすめながら、著者の気持ちと、こんなにもしっくりと溶け合う時間……ちょうど海とひとつになるような……を持てたことを、わたしはとても幸福に思う。

 

著者の文章を自分の好き勝手にあれほど書き変えておきながら、その挙句にこんな言葉をさも満足気に記す。
この末文を読んで感じるのは落合恵子の愚かな自己陶酔ばかりだ。断言するが、著者の気持ちとほんのわずかも溶け合ってはいない。それは落合の恥ずべき妄想に過ぎない。