第31回 落合恵子は「悪」が好みか

 
落合恵子のこういった大袈裟な訳語の一つからも、アン・モロウ・リンドバーグとは資質や感性において大きな隔たりがあるということがわかる。*1

現在、個人的にも地球規模であっても、世界が直面しているもっとも凶悪なる問題は、女だけとか、男だけとかいった一方の性だけで解決できるものではない。(p.153)


原文は以下の通りである。

For the enormous problems that face the world today, in both the private and the public sphere, cannot be solved by women―or by men―alone. (p.130)


「もっとも凶悪なる」とはまた何とも恐ろしい言葉を持ち出してきたものだ。
だがこれは先に指摘した 《enormity》 と同じことであり、この形容詞 《enormous》 は 「巨大な」 とか 「莫大な」 といった意味に解すべきところである。*2
どうも落合恵子には 「悪」 という言葉を軽々しく用いる傾向が見られる。また落合は 「攻撃的」 (p.58) だの 「攻撃力」 (p58) だの、 「闘い」 (p.145) だの 「革命」 (p.146) だのといった仰々しい言葉を安易に訳文に持ち込む。だがそのように物事を単純化した捉え方や粗雑で大袈裟な言葉の選択はアン・モロウ・リンドバーグとその著作には全く相応しくないものだ。


訳せば大体以下のようになるだろう。

個人的領域と社会的領域の両方において、今日の世界が直面している非常に大きな問題は、女だけでもまた男だけでも解決できるものではない。
 
 
 

1935年、アン・モロウ・リンドバーグが29歳の時に発表された彼女の最初の著作。
『海からの贈物』で説かれている簡素な生活の重要さ、断続性といった考え方は日本人にはむしろ理解し易いものであろうが、実際に彼女は若い頃から日本文化への強い関心を持っていたということをこの作品から知ることができる。そしてその中でも特に印象深い 「サヨナラ」 と題された短い文章によって、この本は日本人読者にとって特別な一冊になっている。良質な翻訳は中村妙子氏による。この翻訳が落合の様な者の手に掛かることがなくて本当に良かった。
 
 
 

*1:良かれ悪しかれ、落合は外に打って出るタイプの作家であろうが、アン・モロウ・リンドバーグは落合とはまるでタイプの違う作家であるとつくづく思う。正反対だと言ってもいい。『海からの贈物』の成り立ちにしても、著者が自分個人の問題を内側に深く掘り下げていった結果、それが広く他の人々にも通じる普遍性を持つということに著者は気づいて驚き、そうして初めて本になったのであり、そこには 「私の考えていることは他の人にとっては意味が無いのではないか」 という躊躇い、慎みがある。だが落合はそういう躊躇いとはおよそ無縁な人間であるように思える。落合は迷いなく声高に語る至って外向的な作家であって、アン・モロウ・リンドバーグの内省的な文章の翻訳にはそもそも不適任であったと私は考える。落合がこの著作から受けた感動というのもほとんどは勘違いだろう。

*2:著者は別の章で 《an enormous project or a great work》 (p.49) という表現もしており、《enormous》 がやはり否定的な意味で用いられていないことがわかる。また上に紹介した彼女の最初の著作においても 《enormous》 は使われている。日本で目にした光景を描いた箇所で、《their brown faces hidden under enormous rooflike hats of straw》 と書かれていて、中村氏はそこを 「日焼けした顔を大きな菅笠の下に隠して」 と訳している。アン・モロウ・リンドバーグはこの言葉を 「非常に大きな」 という程の意味で用いていると見てよいだろう。