落合恵子のフェミニズムによって歪められた翻訳

 

原著の英文、それに新潮文庫の旧訳と比較しながらこの新訳を何度も読んだが、英文読解力の低さによる誤訳が多いだけでなく、何よりも訳者である落合恵子が意図的に書き変えた明らかに原文の意味と異なる身勝手な改変、歪曲、加筆などが多い。
全体として、落合のいびつなフェミニズムが露骨に影響した、たちが悪い翻訳になっている。

例えば原文には、"why the saints were rarely married women." とあって、「なぜ女の聖人たちが、まれにしか結婚をしていなかったか」 と訳すべきところだが、落合のフェミニズム的解釈にかかると、「なぜ、社会的に目覚しい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったか」 (p.26) となってしまう。
どうやら落合の中では、 「女の聖人」 とは 「社会的に目覚しい活動をした女」 という意味であるらしい。

また例えば、"Patience, patience, patience, is what the sea teaches." とあって、当然 「海は忍耐を教える」 と訳すべきなのに、落合は著者が3回も繰り返している "patience" を 「柔軟性」 と勝手に書き変えて、「海は柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。」 (p.13) と著者の考えとまるで違うことを書く。
なるほど読者の大部分は女性であるこの本、女性たちに忍耐を説くなど落合のフェミニズムが許さないのだろう。この "patience" は著者が度々用いている重要な言葉であるが、「忍耐」 と適切に訳された箇所は一つもない。

さらに、"modern extrovert, activist, materialistic Western man" とあって、訳すなら 「現代の、外向的で行動主義的、物質主義的な欧米の男たち」 といった辺りだが、一体落合は何の恨みがあるのか、「現代の、外側にエネルギーを発散させるだけの、攻撃的で、即物的な欧米の男たち」 (p.58) などと著者が書いてもいない非難を書き込んでいる。
「外側にエネルギーを発散させるだけ」 だの 「攻撃的」 だの、アン・モロウ・リンドバーグの文章のどこにそんな低劣な言葉があるというのか。
「攻撃的」 なのは落合自身ではないか。浅はかさに呆れる。

そして英文読解力を疑わせる例を挙げれば、"very brief duration"、「とても短い期間」 と解されるごく簡単な英文を、なぜか 「単調な持続を重ねるだけの日々」 (p.148) と意味不明な "ポエム" に仕立ててしまう。
まして、"haven" を 「天国」 (p.55) と誤訳したり、"rock" を 「封鎖」 (p.146) などと誤訳している辺りは余りにお粗末で話にならない。
大学は英米文学科でさらに英語部にも所属していたそうだが、ならばこのレベルの低さはどう考えたらよいのか。

 

ここでの指摘はこれくらいにしておくが、上記のような翻訳の問題点は他にもまだ幾つも挙げることができる。
特にひどいのが、著者が二十年後に新たに書き加えた章の翻訳で、落合はそれをこの新訳で日本の読者に伝えたかったと立派なことを言っているのだが、残念ながらそれは間違いだらけデタラメだらけという有様だ。新潮文庫の旧訳にはこの章は入っていないので、お手本に頼ることができず誤訳が頻発してしまった、しかしまた比較して読まれるという心配もないので心置きなく落合流フェミニズムの 「翻訳」 を行った、ということだろうか。これではわざわざ新訳を出した意味などない。もっと言えば、こんな偽りと誤りに満ちたものをアン・モロウ・リンドバーグの言葉として紹介されては有害であり迷惑だ。

旧訳の 「リンドバーグ夫人」 ではなく 「アン・モロウ・リンドバーグ」 という独立した女性個人の名前でなければと言って、このフェミニストの翻訳者は著者名表記の正しさに関しては強いこだわりを見せるのだが、著者の言葉を正しく伝えるという考えは持ち合わせていないらしく肝心の原文を自分の主義主張の為に好き勝手に書き変えておいて全く平然としていられるのだから、どこかが歪んでいるとしか言い様がない。そしてそんなことをしておきながらぬけぬけと、このアン・モロウ・リンドバーグの著作は私の長年の愛読書だ、などと言ってのける。ではなぜその愛読書を汚す行為を平然と行えるのか。無自覚な傲慢さとでも言おうか、落合は翻訳者としての誠実さや謙虚さが欠落していると言わざるを得ない。

この新訳の愛読者や落合ファンにはこれらの指摘は不愉快に違いなく、そういう人たちが冷静に事実を受け入れることは難しいだろうが、落合の翻訳ぶりに問題が多いことは否定のしようもない明白な事実であって、著者と原著への敬意を欠いたこのような翻訳がいまだに罷り通っているというのは恥ずべきことだ。駄目押しをするが、単に気がつかずに誤訳をしてしまった、という問題ではないのだ。定評のある新潮文庫の旧訳を何度も読んでいると自ら言っているわけで、落合恵子は完全に承知の上でこのような愚行を繰り返しているのである。
「たちが悪い」 と言うのはそういうことだ。

訳者あとがきではずいぶんと御満悦の様子で、「著者の気持ちと、こんなにもしっくりと溶け合う時間……ちょうど海とひとつになるような……を持てたことを、わたしはとても幸福に思う。」 などと自分に酔っているが、溶け合ってなどいるわけがない。
思い上がりも甚だしい。自分の身勝手な言葉を優先させて著者の言葉をないがしろにした人間がよくもこんな図々しいことを言えたものだ。
もし落合に恥を知る心がまだわずかでも残っているなら、著者アン・モロウ・リンドバーグへの無礼を詫び、この身勝手でデタラメな訳文を改めるべきだ。
 
この名著を大切にしたいと考えるなら出版社も落合ではなく他にもっと相応しい訳者を選べたはずで、たとえばもし須賀敦子さんが訳していたなら、このような恥ずべき代物ではなく本当に読み継がれるべき翻訳が生まれていたことだろう。