第15回 すぐ前に書いたことも忘れる

 
まず落合恵子訳。

この島でわたしはあおい貝を見ながらそういう経験をした。
ひとりで一週間を過ごした後、妹がやってきて、次の一週間を共に過ごした。(p.105)


この落合の訳文を読んだとき、原文を確認するまでもなくすぐにおかしいと気づいた。というのは、著者アン・モロウ・リンドバーグはその標本を見たことがあるというだけで実際にあおい貝を手にしたことはないのであり、そのことは当の落合の訳においてもほんの数ページ前にはっきり記されている。

落合訳も次の通りで、アン・モロウ・リンドバーグはあおい貝を実際に手にしたことはないのだ。*1

あおい貝の、この仮の住まいをわたしは専門家のコレクションでしか見たことはないが、その生き方のイメージには、とても心魅かれるものがある。(p.97)


落合の訳した箇所は実際どうなっているのか、原文を読めば理解できる。少し前から引用する。

And though we may seldom come upon a perfect argonauta life cycle, we have all had glimpses of them, even in our lives for brief periods. And these brief experiences give us insight into what the new relation might be. On this island I have had such a glimpse into the life of the argonauta. After my week alone I have had a week of living with my sister. (p.90,91)


落合が何の考えも無く 「見ながら」 と訳した単語は 《glimpse》 であって、 「見ること」 には違いないが 「はっきりとではなく、ちらっと見ること」 を意味する。 「見ながら」 などという継続的な状態ではない。

この英文の大意は 「私たちに完璧な “あおい貝の生活” が訪れるということはめったにないにしても、その一端を窺えるようなちょっとした経験は誰にでもある。そういう経験が、人間関係の新しいあり方がどんなものであるかを示唆してくれる。この島で妹と一緒に過ごした一週間はそのような経験だった。」 ということなのであり、この 《glimpse》 は、実際にあおい貝の実物を手にして見たということではなく、 「あおい貝によって象徴される生活のあり方」 の一端を見たということを意味している。

 
《I have had such a glimpse into the life of the argonauta.》

ここを訳せば、 「そのような“あおい貝の生活”の一端を見ることができた。」 といったあたりで、具体的には著者が島で妹と一緒に過ごした一週間の生活のことを言っている。


こういう辺りから、やはり落合はちゃんと自分で原文を読んだ上で訳しているのではないという印象を受ける。吉田健一訳かあるいは出版社が用意した下訳に、自分の都合や趣味に合うように手を加えただけのように見えて仕方がない。


ところで落合はこの翻訳に関して、[訳者あとがき] でこんなもっともらしいことを語っている。

また、本書が、多くの支持を獲得しながらも、特に日本においては、必ずしも著者が意図したような、拓かれた 「Woman's eye, Woman's voice」 の書として認知されてはいない*2という事実もあった。ここ十年ほど、季節の変わり目にこの本を開くたびに、「リンドバーグ夫人」 という著者名が、正直気になっていたこともある。原書はもともと彼女のフルネームで発表されていたはずだが、日本で翻訳刊行された当初、「リンドバーグ夫人」 という表記はやむを得ないものであったかもしれない。しかし、アン・モロウ・リンドバーグという個人名こそ、この著者には、この本にはふさわしい。そう、わたしは考える。また、原書と照らし合わせて翻訳を進める中で、たくさんの 「新しい発見」 もあった。(p.158)

  
「原書と照らし合わせて翻訳を進め」などと一見いかにも誠実そうな口ぶりであるが、実際に原書と落合の訳文を照らし合わせて読み通した人間にとっては、落合恵子のこの言葉は寸毫も信じることができない。*3
とは言え、知名度を当てにして選ばれた訳者が他人の翻訳をアレンジしてまとめるだけのやり方であったとしても、そのこと自体を批判するつもりは別にない。とにかく売れ行き商売を第一に考えなければならない出版社の事情もあるだろう。だが、これまで正しく理解されていなかったこの著作を私がいま本来の姿で読者に贈りたい、とでも言わんばかりの落合の物言いには強い憤りしか覚えない。図々しくも 「新しい発見」 などと言い出すとは。自分がアン・モロウ・リンドバーグの著作に対して一体何をしたのか落合は覚えていないのか。
いや、すぐ前に書いたことも忘れる人間だ。覚えているはずもない。
 
 
 

*1:細かなことを言えば、「あおい貝を見ながらそういう経験をした」という日本語がそもそもおかしい。「〜しながら〜をする」というのは二つの行為の時間的な長さが大体同じであるのだ。翻訳以前の問題で落合恵子という作家はまず日本語の能力が低い。

*2:落合は、著者アン・モロウ・リンドバーグがこの著作を拓かれた 「Woman's eye, Woman's voice」 の書として認知されることを意図していたと記しているが、そこに何らの典拠も示していない。試しに 「Woman's eye, Woman's voice」 で検索してみたのだが、関連するような記事は何一つ見つからなかった。もし関連する事実があるというなら落合女史に是非とも御教示を願いたい。

*3:あるいは熱意と努力の結果がこの有様で、単に落合の英文読解力が著しく低かったに過ぎないという可能性も一応考えるべきだろうか。腹立たしいのでついでに言っておくが、どんな翻訳であろうと翻訳というものは必ず 「原書と照らし合わせて」 行うものだ。言わずもがなの自明なことを殊更に書き記すな。