第20回 《patience》を「おおらかさ」と訳す落合恵子の「しなやかな」感性

 
この結びの文章においても、落合は著者アン・モロウ・リンドバーグの表現から大きく逸脱した書き変えをしている。

波の音が、わたしの背で繰り返しささやいている。*1
……おおらかさ、……豊かさ、……包容力、と。(p.141)


原文は以下の通りである。

The waves echo behind me. Patience - Faith - Openness, is what the sea has to teach. (p.120)


最後の 「包容力」 は問わないとしても、著者は 「おおらかさ」 とも 「豊かさ」 とも書いてはいない。《patience》 の意味するところは 「忍耐」 である。全く意味が違う。冒頭で落合は 《patience》 を 「柔軟性」 などとデタラメに訳していたが、今度はまた 「おおらかさ」 などと好き勝手に訳している。
これは著者が述べていることを翻訳し読者に伝えようとしたのではなく、「海=おおらか」、「海=豊か」 という、落合の単純で安易な連想をただ書き連ねたのに過ぎない。
 
 
吉田健一はこのように訳している。

波音が私の後ろから聞こえてくる。忍耐、― 信念、― 寛容、と海は私に教える。 (p.128)

 
 
 

*1:波の音が 「ささやいている」 と、落合は原文とは違う擬人的な表現に書き変えてしまっているが、著者がそのような表現を選ばなかったことに考えを致さないのは思慮が足りないと言わざるを得ない。「ささやく」 という述語は、二者の間の距離や関係がごく近いことも含意している。「海」 と 「わたし」 をそのような関係において気安く並ばせるのは安手な感傷と陶酔でしかない。このような落合の程度の低い通俗的な感性によってこの著作が日本において多くの読者を得たのだとしたら、それは決して喜ばしいことではない。