第19回 女は被害者だと書き加えることはやはり怠らない

 
まず落合恵子の訳から。
不遇の中にあっても女たちは本当に大事なことを決して忘れることがなかった、といった形に歪曲されている。

女は、家庭というひとつの限定された空間で暮らすことを余儀なくされた。そして、家庭を構成するのは、個々の人間であるという独特な感覚を忘れずにきた。
女は、「いま」という瞬間の自然の姿を、「ここ」という空間のかけがえのなさを決して忘れたことはない。(p.140)


落合の無駄に長い訳文とは違って、原文はごく簡潔なものである。

In the small circle of the home she has never quite forgotten the particular uniqueness of each member of the family; the spontaneity of now; the vividness of here. (p.119)


この原文の根幹は、「この大事な三つを女は忘れたことがない」、たったこれだけである。
「暮らすことを余儀なくされた。」 という表現は原文には全く無く、「女は家庭にずっと閉じ込められていたのだ」 という落合の個人的な考えを加筆しているに過ぎない。「余儀なくされた」 というのは、「けっして望んだことではないが、他に手立てもなくやむを得ず」 ということである。そもそも原文は一文であるのに、落合はそれをわざわざ区切って二つの文章にまでして 「余儀なくされた。」 などと書き加えている。これでは著者がそこに重点を置いているかのような印象になってしまう。全くこの訳者のすることはたちが悪い。
また、「家庭を構成するのは、個々の人間であるという独特な感覚」という訳もデタラメで全くの誤りである。*1 「感覚」という訳語は一体どこから出てきたのか。
 
吉田健一の翻訳は以下の様に適切なものである。

女は家庭という一つの狭い範囲で、その家庭をなしている一人々々に認められる独自のものを、また、今という時間の自然な姿を、また、ここという場所の掛け替えのなさを決して忘れたことがない。 (p.127)

 
 
 

*1:「家庭を構成するのは、個々の人間である」 と感じるのは、至って普通の感覚だと思うが、一体どこを 「独特の感覚」 と見るのだろうか。意味が解らないが、ことによると 「男たちには持ち得ない、女性特有の」 という意図があるのかもしれない。