補遺5 《mind》を「頭」と訳す吉田健一訳『海からの贈物』の質の高さ そして落合恵子の愚かさ

 
ことさらに吉田健一の翻訳を称揚するつもりもないのだが、原文と照らし合わせながら吉田健一の訳文と落合恵子の身勝手で程度の低い訳文を比較してつぶさに読んでいくと、やはり両者の翻訳には歴然としたレベルの違いがあるということ、そして何よりそもそも翻訳の仕事に向かう心構えが全く違うということを認識させられる。
ここでは吉田訳の的確さを示す例を一つだけ取り上げて紹介しようと思う。
この吉田健一ならではとも言える、一見意外に思える訳語の選択から、単なる読みやすさや表面的なわかりやすさだけの翻訳などとは別物の、著者の原文を深く理解していなければ為し得ない翻訳というものが見えてくるだろう。

 
まず落合恵子の訳文の方から引用する。
この部分だけを読めばとても読みやすくわかりやすい良い訳文にすら見えるだろう。それで困ったことにこういうものに感銘を受ける人間まで出てきてしまう。

「変わらずにあるのは、心の生活だけである」 とサン・テグジュぺリは言っている。 (p.116)

 
落合のこの訳文を読んだ読者は、サン・テグジュペリが 「変わることのない心の生活こそが大切なのだ」 と説いているのだと、「物質的なものは儚く、ただ心の生活だけが不変で確かなものだ」 と説いているのだと思ってしまうことだろう。
だがサン・テグジュペリ、あるいは著者アン・モロウ・リンドバーグが述べていることはそういったありがちで凡庸な見解なのではない。全く違う。
実は落合はこの箇所の翻訳で原文の最も重要で本質的な部分を削除しており、残りの重要ではない部分しか訳していないのだ。

 
ではなぜ落合恵子は原文の最も重要な部分を削除してしまったのか。
原文と落合の訳文から推測すると、次のような経緯であった可能性が高い。
落合はアン・モロウ・リンドバーグの原文の意味を読み取ることができず、原文に従った形で訳文を作ることができなかった。そのまま全部を訳していると意味がよくわからないおかしな訳文になってしまう。そこで落合は自分が理解できたと思った部分(実は少しも理解できていないのだが)だけを訳し、自分が理解できなかった(本当は最も重要な)残りの部分は削除することにした。
落合は、自分が理解できない部分は削除して訳文の辻褄を合わせるという全く安易でそして最も愚かな解決策を選んだのだろう。身勝手な自分の都合で原文を無かったことにしたのだろう。上手く訳すことができないのは自分の読解力が足りないからだ、自分が至らないからだ、という考えがそもそもないから逆に著者の文章の方を削除するなどという傲慢で野蛮な行為ができるわけで、落合恵子は原著に対する敬意や畏れや謙虚さといったものが欠落していると言う他はない。*1


 
アン・モロウ・リンドバーグの原文は以下の通りである。落合恵子はこの原文の赤色部分だけしか訳しておらず、残りは全て削除している。

The life of the spirit,said Saint-Exupéry, “the veritable life, is intermittent and only the life of the mind is constant . . . . (p.99)
  

原文が理解できずに窮した落合は、よりによって原文の一番重要な部分、《The life of the spirit, the veritable life, is intermittent》 という部分を削除してしまっているのだ。
《veritable》 とは、「本当の、真実の」 という意味である。
*2
 
 
吉田健一はこれを以下のように訳している。少し長く引用する。

精神の生活、真実の生活は断続的であって、いつもあるのは頭の生活だけである、……」 とサン=テグジュペリは言っている。 「精神は、……明視と盲目の間を往復する。……ここに、自分の農園を愛している一人の男があるとして、その男にその農園が、互いに何の関係もない幾多の物体の集まりにしか思えないこともある。また、自分の妻を愛している男がいても、彼がその愛に邪魔や束縛だけを感じる瞬間もある。また、音楽を愛する男がいるとしても、どうかすると音楽が彼の胸まで届かずにいる。」 (p.108)


「断続的であること」、「断続性」、《intermittency》 Gift from the Sea における重要な概念の一つである。ここでは、断続性が人間の生の実相であるということ、例えば物事への愛着にせよ誰かとの親密な関係にせよそれが少しも変わらない状態でずっと永続するということはあり得ず、途絶えたりまた時に戻ったりするような断続的なあり方が真の姿であるということが述べられている。著者は、精神の生活、真の生活は断続的なものであり、永続・不変なものではない、と述べているのだ。
 
そして驚いたことに、吉田健一はその後の 《mind》 を 「頭」 と訳している。《mind》 は 「心」 だと覚えている者には 「頭」 という訳は全く選択肢に無いもので、おかしいのではないかと思ってしまうだろう。
だがこの英文は実はそう訳してこそはじめて意味が通り理解が可能になるものであり、「真実の生活は断続的なものであって、我々には永続性というのは観念的にしかあり得ない。頭でそう考えているだけなのだ。」 という意味に解することが可能になる。 そうして著者アン・モロウ・リンドバーグが述べる断続性の概念がより理解できることになる。著者はすぐ後にそのことをより具体的に、「我々が誰かを愛していても、その人間を同じ具合に、いつも愛している訳ではない。そんなことはできなくて、それができる振りをするのは嘘である。」 とも述べている。
しかしここで 《spirit》 を 「精神」 と訳し、次いで 《mind》 をただ習慣的に 「心」 と訳してしまうと 「精神の生活は断続的であって、変わらずにあるのは、心の生活だけである」 となってしまい、意味がよくわからない文章になってしまう。日本語の 「精神」 と 「心」 では明確な対比にならないからだ。*3
 
このような次第で、落合は意味が通らない不出来な訳文の辻褄を合わせるために、自分が理解できなかった本当は最も重要な箇所を削除することにしたのだろう。その結果、著者の断続性という考えからまるでかけ離れた落合スタイルの “読みやすくわかりやすい訳文” ができあがった。「変わらずにあるのは、心の生活だけである」 という訳文はサン・テグジュペリの言葉ともアン・モロウ・リンドバーグの考えとも全く違うものであって、落合自身の 「やはり大切なのは心なのだ」 というような漠然とした素朴な考えを表明しているに過ぎない。
 
《mind》 は一番はじめに覚えるようなごく基礎的な英単語であって、落合でなくとも何の疑いもなく即座に 「心」 と訳すのが普通だろう。では吉田健一の 「頭」 という訳は突飛な訳語だろうか。だが、英語 《mind》 の意味するところと、日本語の 「心」 の意味するところはやはり違っている。同じではない。むしろ二つの言葉の意味が重なり合う範囲は意外に狭いのだ。
日本語の 「心」 は、「優しい心」 や 「心を込めた」 などの用例のように、「気持ち」 とか 「心情」 の意味合いが主であるのだが、それに対し、《mind》 の主な意味合いは実はむしろ 「思考、考える力」 である。日本語の 「心」 に比較して、《mind》 は「知性や知能の能動的な働き」 といった意味合いが強いと言える。もちろんこの場合、《mind》 を 「頭」 とするのは実に適切な訳語の選択である。
 
とはいえ吉田健一《mind》 を 「頭」 と難なく訳しているのは彼が単語の意味と文脈の意味を深く理解していたから為し得たことであって、吉田健一落合恵子、両者の素養に到底比較にならない大きな懸隔があることを考えてみれば、ここまでのことを 『海からの贈りもの』 の訳者に求めるのはそもそも無理な注文であるかもしれない。
 
 
 

*1:意味が読み取れない原文は削除しても別に構わないと落合は高をくくっているわけだ。思い上がりと言う他はない。

*2:《the life of the spirit》 が真実の姿であるというのだから、当然それに対する 《the life of the mind》 は真実の姿ではない、ということである。落合は真実でない方だけを訳して、肝心の真実である方を削除してしまっているのだ。そうして “読みやすくわかりやすい” 間違った訳文が出来上がっている。この訳文の “わかりやすさ” は落合の読解力の低さがもたらした皮肉な結果である。

*3:「精神の生活は断続的であって、変わらずにあるのは、心の生活だけである」 と訳してみても、日本語の 「精神」 と 「心」 では明確な対比を成さないので、これでは著者の文章がどういう意図なのか理解することができない。それで落合は前半の英文を無かったことにしたのだろう。 翻訳に間違いはつきものであり誤訳が出てしまうのは当然のことで、それは仕方がない。だが落合がやったことは単なる間違い、誤訳ではない。私はやはり落合の翻訳の態度に誠実さや謙虚さを見出すことが到底できない。むしろ落合は著者よりも自分の方が上だとでも思っているのではないか。そうでなければこんなことはできないだろう。