些細な誤訳の指摘などではない

 
傍目八目という通りで翻訳の間違いも傍から見た方が目につき易いに決まっている。そんな間違いを言い立てて得意になっているわけではない。骨折り仕事を誰に頼まれたわけでもなし誤訳の指摘というのは多くもとの本への傾倒愛着故の已むに已まれぬ所業である。よくよくのことだ。

それ故とかく指摘は細かく語調は苛烈になり易い。世の誤訳指摘を見るにつけまた我が身を省みても思う。ひどい誤訳が目に余り怒りに駆られれば「坊主憎けりゃ」で何から何まで髪型まで気に食わなくなる。あのおかしな「、」の打ち方さえ癪の種だ。何故あんな身勝手な捏造や歪曲が平然とできるのかと憤れば勢い人間性を詰る調子にもなる。正直「馬鹿野郎いい加減にしろ」と言いたいのだ。いや馬鹿女か。


だがそうまでなると事情を解さぬ輩からは些細なことのあげつらいに血眼になっているだけにも見えるようで「辞書どおりに訳すのが正しいのだろうか」とか一見もっともらしいたわ言を言い出す分別顔の手合いも出てくる。終には評判へのやっかみだなどと言われかねない。「有名税」とはよくも言った。声を上げていきり立つ者は小人で鷹揚として取り合わないのが大人というわけだ。

誰でも誤訳はする、お互い様だ、それなら自分で訳してみればいいなどと言う。一冊訳せば誤訳の数は両手で済まないなどと言う。挙句は百人が訳せば百通り、果ては全ての翻訳は誤訳であるなどと言い出す。なるほどそうに違いない。だがそれだけにこうした弁えた風の言い種には大した意味も無い。

単なる間違いが許せないのではない。承知の上でまるで意味の違う言葉に変えてしまう図々しさ、日本語としても意味が通らないおかしな誤訳を気にも留めない鈍感さが我慢ならないのだ。勿論訳せばそれぞれで皆が全て同じに成る筈もないが振れる余地のない大筋というものは有るはずだ。
翻訳物が「みんなちがって、みんないい」わけがない。