Gift from the Sea  『海からの贈物』

 
Gift from the Sea は1955年に発表された、アメリカの女性作家 アン・モロウ・リンドバーグの代表作である。
今日とは違って飛行機で空を飛ぶことが特別なことであった時代において、アン・モロウ・リンドバーグとはまず世界的に有名な飛行家リンドバーグ大佐の妻であり、そしてまた彼女自身もまだ世に珍しい女性飛行家であるという作家であった。
しかしこの原著で120ページほどの小品は彼女がそれまでに発表した作品とは大きく趣の異なるもので、そこには有名な飛行家の妻もまた女性飛行家も姿を見せることがない。彼女がコネティカットの自宅を離れて休暇をすごした海辺でのささやかな体験を端緒とする静謐な思索のみが綴られている。
この著作が多くの読者を得ようとは著者も予想だにしていなかったことが序文から読み取られるが、図らずも本書はアメリカでその年のベストセラーとなり、また日本では早くも一年後の1956年に新潮社から『海からの贈物』の邦題で出版された。
 
以下の文章は、その訳者吉田健一による訳者あとがきである。Gift from the Sea のもう少し詳しい紹介としてこれを引用する。
 

 本書の著者は、大西洋横断飛行に最初に成功したので有名なリンドバーグ大佐の夫人で、他にも著作が幾つかある。夫人自身も、世界の女流飛行家の中では草分けの一人であり、また今度の大戦の後ではヨーロッパに渡って、フランス、ドイツなどの罹災民の救援事業に挺身し、戦災を受けた各国の状況に関する貴重な報告書を出している。
 しかし本書には、著者のそういう経歴については何も書いてなくて、ここで語っているのは経歴などというものを一切取捨てた一人の女であり、また一家の主婦であって、語られているものは、その女が自分自身を相手に続けた人生に関する対話である。一人のアメリカ人の女と言い直す必要さえなくて、ここでは、現代に生きている人間ならば誰でもが直面しなければならない幾つかの重要な問題が、著者の生活に即して、というのは、世界のどこに行っても今日では大して変わりがない日常生活をしている一人の人間の立場から、自分自身に語り掛ける形で扱われている。現代社会とか、世界平和とかいう大きな問題がいかに我々の生活と密接に結び付いているかを本書は示しているばかりでなくて、そういうものが凡て我々の生活を出発点にしているという我々が忘れ易い事実を、著者が瞬時も見逃さないことが、この『海からの贈物』にこれだけの説得力を与えているものと思われる。
 機械化とか、物質文明とかいうことが常に言われているアメリカにこの種類の名著が現れたのは不思議に感じられるかも知れない。しかしそれは、人間が外部からの圧力に対して全く無力であるという現代の迷信に属した見方であることを、本書の著者自身が誰よりも先に指摘するに違いないのである。

 
『海からの贈物』はのち1967年に新潮文庫の一冊として出版され、原著同様に版を重ねて今もなお読み継がれている。