第3回 落合恵子が「忍耐」という訳語を書けない理由

 
《patience》 は普通、「忍耐」 あるいは 「辛抱強さ」 と訳される。
ではなぜ落合恵子《patience》 という言葉に対して全く意味が違う 「柔軟性」 などという訳を当てたのか、それは結局わからない。
しかし落合が「忍耐」 という訳語を書かなかった理由ならば容易に察しがつく。*1

やはりこの本、Gift from the Sea の読者の大部分は女性である。もちろん落合恵子の読者については言うまでもない。おそらく落合は 「女性に忍耐を説くこと」 を忌避したのだ。もっとあからさまに言うなら 「女が耐える」、「女が我慢する」 というのが落合にはそれこそ我慢ならなかったのだろう。
なるほど、もし 「海は忍耐こそすべてであることを教えてくれる。」 などと訳してしまったら、女性たちに向けたメッセージとしてフェミニスト落合恵子には到底許すことができない表現になってしまう。*2 フェミニズムを看板にする作家が女性たちに対してまさか 「忍耐が最も大切です」 などと説くわけにはいかない。それこそフェミニストの沽券に関わる。このような思惑から落合は著者アン・モロウ・リンドバーグの言葉を否定したのだろう。
 
では落合が拒否したこの 《patience》 はどのように読むべきだろうか。
だが何も難しいことはない。原文をちゃんと読んだ人間なら、すぐ近くに明確な手掛かりがあるということに気がつくことができる。
アン・モロウ・リンドバーグ《patience》 をその直前にある 《impatience》 に対置しているのであり、言葉の意味は当然そこから考えなければならない。*3 そしてこの 《impatience》 とは 「せっかち」 という意味であり、《patience》 はその 「せっかち」 を戒める言葉として記されているのである。


The sea does not reward those who are too anxious, too greedy, too impatient. To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. (p.11)


この原文を吉田健一は次のように訳している。

海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。 (p.15)


「忍耐」 といっても、辛いこと嫌なこと理不尽なことに耐え忍ぶというような意味ではなく、自分で砂浜を掘り返して貝殻を手に入れたいと思うはやる気持ちに対して、そこを我慢しなさい、こらえなさいと言っているに過ぎない。
「貝殻を求めて砂を掘り返したいところを我慢しなさい」 ということが直接の意味であり、さらにこれを抽象的に求めれば、「はやる気持ちを抑える」、「自分から手を出したいところをこらえる」 という意味合いでの 「忍耐」 であると見当がつく。*4
ここでの 「忍耐」 とは、「自分から動きたい気持ち」、「はやる気持ち」 に対して 「そこを我慢しなさい」 と言っていると見て良い。
要するに、「待ちなさい」 ということだ。

ここで著者は、女性たちよ辛いことがあっても耐えなさい、何より辛抱が大事です、と説いているわけではないのだ。もちろんデタラメな落合の 「柔軟性」 など出る幕も無い。
 
それでいささか解りにくい 《lack of faith》 という箇所も理解することができるだろう。吉田健一訳では 「信仰がないこと」 と訳されており、かつて読んでいてなぜ話が急に 「信仰」 のことに及ぶのか理解できなかった。もちろん 「信仰」 という訳は至ってもっともなものなのだが、今になってみると必ずしも適当とは言えない訳語のようにも思われる。何か無宗教であることを難じているようにも読めてしまうが、おそらくこれはキリスト教だとかの具体的な宗教の信仰の有無のことではなく、自分から砂浜を掘り返して貝殻を漁るような行為は 「到来をじっと待つことができない」 ことであり、それは 「信じることができない」 ことであるという様に解釈できるだろう。


そして、この《patience》 の意味を確かめながら原文を読んで初めて理解できたことであるが、そもそもこの The Beach の章全体が 「待つ」 という述語を基調として綴られていると言って良い。
まだ読んでいない本、返事を出しそびれたままの手紙、作家としての仕事、そんなあれこれを抱えて勇んで浜辺にやってきたものの、すぐに浜辺のゆるやかな時間と空気の中に当初のはやる気持ちは溶けてしまう。考えることすらせず何もしないでそのまま過ごし、そうして二週間目の或る朝、ようやく意識に目覚めが訪れる、というように著者は書いている。
ここでは能動的な行為や確固とした意思というような主体的なものは遠ざけられていて、そのことは 《drift》 「漂う」、 《unconscious rollers》 「無意識の波」、 《chance treasures》 「偶然手にした宝物」、 《choiceless》 「選んだりしない」、というような共通性のある言葉が幾つも用いられているということからも窺える。  
 
そうしてこの章は 《―waiting for a gift from the sea.》 の一行で閉じられる。
 
 
 

次女のリーヴ・リンドバーグが序文を寄せている50周年版。落合訳の『海からの贈りもの』もこのPantheon Books版を底本としている。
安価なペーパーバックだが紙質や印字が良く、またグラデーションのかかった薄いブルーに銀色の箔押し文字というシンプルな表紙も美しい。
 
 
 

*1:「そう、ほんとうの忍耐強さとは、柔軟性によってこそ可能になるのだから……。」 などと落合は悪びれもせずに言い出しかねないので先に潰しておく。

*2:もっとも著者は 「〜こそすべてである」 などという単純な断言はしてはいない。こういった安易で単純な断言は落合の思考のパターンであろうか。原文を直訳するなら 「忍耐が海の教えてくれることである。」 といった辺りで、そこを吉田健一は 「忍耐が第一であることを海は我々に教える。」 という日本語にしている。ところが落合は吉田訳と原文との対応を確かめもせずに、「第一である」 という表現を 「こそすべて」 などと無闇に強めていて、その結果、落合のデタラメな訳文は原文からますます遠ざかっている。

*3:単語の綴りが示すように、《impatience》という言葉は《patience》が基になっていて、「《patience》を欠いていること」という形である。今回私は原文に当たって、吉田訳の 「せっかち」 と 「忍耐」 という訳語の間には実は明確で密接な対応があったことを知ることができて驚きと喜びを少なからず覚えた。実際に原著に触れてみればこういう発見の驚きと喜びがあり、そしてそれを大事なものだと考える。落合が自分で原著をちゃんと読んだというのは極めて疑わしいことだと私は思っている。

*4:軽薄と言うべきか愚かと言うべきか、落合は著者アン・モロウ・リンドバーグが繰り返し説いている 《patience》 という言葉を無視して自分の言葉を優先させたのであり、著者の言葉が何を言おうとしているのか辛抱強く聴き取ろうとせずに自ら語り出してしまった落合は、正にその 《patience》 が欠落している。アン・モロウ・リンドバーグの表現にならえば、落合は自分で好き勝手に砂浜を掘り返して貝殻を漁る者に他ならず、落合恵子はこの著作 Gift from the Sea を翻訳する資格のない、いや翻訳してはいけない人間だということになるだろう。落合のもとに 「海からの贈りもの」 が届くことは決してない。