第12回 女は被害者だと書き加えることは怠らない

 
落合恵子が翻訳したものはどれも落合の演説になってしまうのだろうか。以下の訳文を読むと髪を振り乱し拳を突き上げる様が思い浮かぶ。

女こそが、自分の内部に力を求めるという革命のパイオニアでならなければいけない。もともと女はそうだったのだ。数十年前までは、女は外的な活動から締め出されていた。その制約が女を内部に向かわせた。(p.57) 


細かいことに見えて実は大事な点から指摘する。
アン・モロウ・リンドバーグは 「女こそが」などという声を張り上げた大袈裟な表現をしてはいない。落合は蓬頭を鉢巻できつく締め過ぎない方がいいのではないか。せめてもう少し自制した翻訳を心掛けたらどうかと思う。*1 
 
次に落合は 「女は外的な活動から締め出されていた。」 と訳しているのだが、これを読んだときに直ちに違和感を覚えた。アン・モロウ・リンドバーグが 「女は締め出されていた」 というような短絡的で抑制を欠いた表現を選ぶとはとても思えなかったからだ。


吉田健一は次のように節度のある翻訳をしている。

女が、この我々の内部に力を求めるということの先駆をなさなければならない。女はいつもその先駆をしてきたとも言えるので、二、三十年前までは外的な活動に加わるのが難しかったために、そういう生活上の制約自体が女に注意を内部に向けさせた。 (p.55)

 
そして原文は次のように書かれている。著者は 「女は締め出されていた」 などという言葉を書いてはいない。

Woman must be the pioneer in this turning inward for strength. In a sense she has always been the pioneer. Less able, until the last generation, to escape into outward activities, the very limitation of her life forced her to look into inward. ( p.50)


わかりやすいように語順を以下のように並べ替え、後半部分を訳してみる。

Until the last generation, less able to escape into outward activities, the very limitation of her life forced her to look into inward.

つい前の世代までは、女が外的な活動へ 《escape》 することは少なく、まさにその生活上の制約が注意を内部へと向かわせた。


まず 《escape》 という動詞をそのまま残して訳してみた。意外なことに原文の表現には 《escape》 という動詞が用いられている。だがここを単純に 「外的な活動へと逃げ込む」 と訳してしまうとおかしな文章になる。
ここの 《escape》 は「逃げる」 ではなく、「液体や気体が隙間から漏れ出す」 という意味での 《escape》 だと解するのが適当だろう。訳すなら 「外的な活動へ自分自身が流れ出ることが少なかった」 とでもなろうか。


この 《escape》 の意味に気づいた時、そういうことかと唸った。この 「つめた貝」の章では、自分の内側にある泉が涸れてしまわないようにすること、そのために一人でいる時間、一人でいる場所を持つことの大切さが説かれている。そして描かれているイメージの一つは水を豊かに湛えた泉であって、「満ちる」、「溢れる」、「涸れる」、「こぼれる」 といった水や液体に関連した述語が比喩的に繰り返し用いられている。
この 《escape》 もそういった言葉の一つなのだということ、そして著者アン・モロウ・リンドバーグは注意深くこの 《escape》 という言葉を選んだのに違いないということに思い至り、唸った。


「女は外的な活動から締め出されていた」 という表現は、その一文だけを取り出して見れば間違いではないだろう。 過去に女性が置かれていた状況というのは事実その通りだったとも言えるかもしれない。だがそうだとしても、著者は少しもそのようなことを言ってはいないのだ。 さらに言えば、原文は一つの文章だというのに落合はそれをわざわざ二つに分けてまでして 「締め出されていた」 という言葉を書き加えている。落合恵子の訳文は明らかに自制を欠いたものであり、著者が文章に込めたものを全く台無しにしていると言う他はない。 
 
 
 

*1:落合の『海からの贈りもの』の訳文には 「~こそ」 の濫用が見られる。これに気付いてざっと拾ってみたところ、一冊の中に少なくとも11箇所の「こそ」が見つかり、比較のため吉田健一の訳文を見ると、吉田訳では2箇所しか見つからなかった。「我々こそが」、「今こそ」、こういった表現は煽りの表現だろう。鉢巻と拡声器が似合う。