第16回 著者と反対のことを言う

 
この箇所の落合の訳文はもう翻訳とか誤訳とか以前の問題であり、日本語として全く矛盾した、首を傾げてしまうようなおかしな文章になっている。

島では、言葉によるコミュニケーションは、無言の交感にとって代り、どんな言葉よりわたしたちの心を癒してくれる。(p.126)


しかしこれは一体どういう間違いだと解釈したらいいのだろうか。これが誤植とかでないとすれば、落合恵子という作家は 「〜にとってかわる」 という日本語を完全に間違って使っていたということである。これでは文章が前後で全く矛盾しているのだから。*1

落合は全くどういう考えでこんな意味の通らない支離滅裂な文章を書いたのだろうか。「言葉によるコミュニケーションは、どんな言葉より私たちの心を癒してくれる」 などという馬鹿な文章を。
全く逆だ。 「無言の交感は、言葉によるコミュニケーションにとって代り、どんな言葉よりわたしたちの心を癒してくれる」 でなければ日本語の文章として成り立たない。落合恵子のこの訳文は、原文を確認するまでもないような、日本語として矛盾した全くおかしな文章であるのだ。


吉田健一訳は次のように至って妥当な訳文である。

話をする代わりに交感するのであって、そのほうがどんな言葉よりも私たちを力づけてくれる。 (p.116)


そして原文はこうなっている。

Then communication becomes communion and one is nourished as one never is by words. (p.108)


このごく簡潔な英文がなぜあのような馬鹿げた訳文に成り果てたのか、それは結局理解することができない。
ただ 《communication becomes communion》 という原文の表現から推測すると、落合がもらった下訳は 「言葉によるコミュニケーションは無言の交感にかわり」 という至って適切なものだったのだが、簡潔な文章表現が気に入らない落合はもっと凝ったかっこいい表現にしたいと考え、言葉の意味がわかっていないくせに浅はかにも 「無言の交感にとって代わり」 と書き足してしまい結果このような矛盾した馬鹿げた文章になってしまった、ということなのかもしれない。*2



次の箇所からも、落合恵子はろくにこの原著を読んでいないのだろうという印象を受ける。落合はここでも著者が述べていることと全く逆のことを書いているからだ。

島では、わたしに代わって、島が暮らしを選んでくれる。きわめて自然に、技巧をこらさずに。その選択は少しも押しつけがましいところがなく、それでいて量は豊かだ。この島ではさまざまな経験をするが、それも決して多すぎない。(p.126)


ここも全くおかしな翻訳である。
「それでいて量は豊かだ。」 などと馬鹿なことを書いている辺りで、落合恵子は原文がちゃんと読めていないということ、そして落合にはそもそも原文をちゃんと読もうという考えが無いのだということがわかる。原文で著者は 「量は豊かだ」 などということは一言も言っていない。むしろ全く逆のことを述べているからだ。


吉田健一は同じ箇所を以下のように適切に訳している。

島での生活は私の代わりに選択してくれるが、それは極めて自然な具合にである。そしてそれは量の問題であって、ものの性質によってではない。この島ではいろいろな種類の経験をするが、それが決して多過ぎないのである。 (p.116)


そして原文は以下の通りである。

Island living selects for me, but it is a natural, not an artificial selection. It selects numerically but not in kind. There are all kinds of experiences on this island, but not too many. (p.108,109)


原文の後半は以下のように書き換えることができて、

Island living selects numerically. But island living doesn't select in kind. There are all kinds of experiences on this island, but not too many.

島の生活は数量の面で選択する。だが島の生活は種類の面では選択することはない。いろんな種類の経験がこの島にはあるが、その量が多過ぎるということがない。と訳すことができる。


ここで言われていることは、「島ではいろいろな種類の経験をするが、その経験することが量的に多過ぎるということがない」 ということである。もう少し読み進むとそれは具体的に述べられていて、都会での生活では自分と似通ったような人たちとの交流がほとんどだが、島では年齢から仕事から様々な人たちと会うことができる、ということが書かれている。更に言えば、都会では沢山の人と会うけれど大抵は自分とそう懸け離れていない人たちで、島で会う人は多くはないけれど自分とは違った色々な人たちに出会える、ということだ。

つまりここの主な意味は、「島の生活は、種類は多様なのだが量的には多過ぎない」 ということであって、著者の文章は 「種類」 と 「量」 の対比によって明確に構成されている。対して、「都会の生活は量においては充分過ぎるまでに多いが、種類においてはむしろ豊かでない」 と著者は述べていると言って良いだろう。量の多さなど著者は少しも重要だと考えていない。 それなのに何を思ったか、「それでいて量は豊かだ。」 とまるで見当違いで馬鹿な訳文を落合は書いている。原文のこの明確な対比を無効にした落合恵子の翻訳は、著者が込めた意味を全く読めていないと言わざるを得ない。


また細かくなるが、「島が暮らしを選んでくれる。」 という訳も正確でない。そうではなく、「島での暮らし」 が主語で、「島での暮らしが交流のあり方を選んでくれる」 と著者は述べているのだ。

それから 「きわめて自然に、技巧をこらさずに。その選択は少しも押しつけがましいところがなく、」 という訳は余りに冗漫でありまた落合の 「独創」 が過ぎている。「押しつけがましいところがなく」 などとは一言も書かれてはいない。ここの英文は、「自然に、そして人為的でなく」 程度のごく簡潔な表現である。
奇しくも、「多すぎず、技巧をこらさず、押しつけがましくなく」 というのはまさしくアン・モロウ・リンドバーグの文章に相応しい言葉だと言えるのだが、落合の訳文はちょうどそれと正反対の 「言葉が多く、技巧を弄し、押しつけがましい」 ものであって、そのような人間が Gift from the Sea の翻訳を手掛けることになったのは実に皮肉なことでありまた残念な次第だ。*3
 
 
 

*1:どうあれ、これを担当した編集者はいったい何を読んでいたのか。はっきり言うが落合の無知を指摘できなかった編集者も駄目だ。

*2:例えば、落合訳 (p.104) では 「探検にはまず大胆な仮説が必要であり」 とあるのだが、原文には 「大胆な」 などという形容詞はない。「探検にはまず仮説が必要であり」 とシンプルに書くことが落合にはできないのだ。そこでもう一つ余計な言葉を盛らないと気が済まないらしい。とは言え意味的に破綻はしてないので「大胆」の語意はさすがに落合も理解できていたようだ。

*3:須賀敦子は絶筆となった『遠い朝の本たち』のなかで、吉田健一訳の『海からの贈物』の一節を引用した後に次のように書いている。 「半世紀まえにひとりの女の子が夢中になったアン・モロウ・リンドバーグという作家の、ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念は、この引用を通して読者に伝わるであろう。何冊かの本をとおして、アンは、女が、感情の面だけによりかかるのではなく、女らしい知性の世界を開拓することができることを、しかも重かったり大きすぎたりする言葉を使わないで書けることを私に教えてくれた。徒党を組まない思考への意思が、どのページにもひたひととみなぎっている。」 (ちくま文庫 p.113,114) 落合にこの箇所を読ませてやりたい。