第29回 平然と嘘を書く落合恵子

 
長年の愛読書とまで言う本を翻訳しているというのに落合恵子はなぜこのような嘘を平然と書くことができるのか。到底理解することができない。*1
落合恵子という作家を強く軽蔑し嫌悪する。


落合の訳は以下の通りである。アン・モロウ・リンドバーグの原文と全く違っている。

たぶん、この二十年間、女も男も、意識の目覚めや高揚という意味においては、素晴らしい進歩を遂げたはずだ。意識啓発と共に成熟するこれらの運動は、前述したように、まだまだ誰もが認める運動の域に達していない。*2 これからが成熟と拡大の季節なのだと思う。(p.150)


一つ目の訳文の 「意識の目覚めや高揚」 という表現からもうアン・モロウ・リンドバーグの原文と大きく違っているが、残りの訳文は本当にどうしようもない馬鹿げた代物である。原文と整合する言葉はせいぜい 「これらの運動」 と 「前述した」 くらいしかなく、ほとんどの部分に落合恵子の身勝手な独創性がうんざりするほど発揮されている。落合の訳文はあまりにも原文と相違したデタラメなものであるため、原文の相当している部分を示すことすらできない。

まず 「意識啓発と共に成熟するこれらの運動」 などという硬直した表現は落合恵子の勝手な加筆であり、そのような意味の文章は原著のどのページにも見つけられない。
そしてそれに続く訳文は誤訳どころではなく、捏造か虚言と呼ぶべきものであって、原文と合っているところが少しもない。あきれたことに落合は著者に成りすまして、「これらの運動は、まだまだ誰もが認める運動の域に達していない。これからが成熟と拡大の季節なのだと思う。」 などという大嘘を書き込んでいる。*3
一体どこで著者はそんなことを述べているというのか。「これらの運動」 というのは、女性解放運動、カウンターカルチャー、環境運動などを指しているのだが、落合は、女性解放運動などこれらの運動が今後さらなる盛り上がりを見せなければならないという自身の主張を他人の著作の中に勝手に書いているのだ。


原文は以下の通りである。

Perhaps the greatest progress, humanly speaking, in these past twenty years, for both women and men, is in the growth of consciousness. In fact, those movements I mentioned under their popular labels could be more truly described as enlargements in consciousness. (p.128)


原文のgrowth 《enlargements》 もぴったりと合った訳語を当てるのが難しいが、その大意が 「大きくなること」 であることには違いはない。おおよそ以下のように訳せるだろう。


おそらく女にとっても男にとっても、この二十年間での最も大きな進歩は、意識の成長においてであったと言えるだろう。実際、一般に知られている呼び名で先ほど言及したあれらの運動も、より正確には意識の拡大の運動であると言い表すことができる。


「あれらの運動」 というのは原著 (p.130) で著者が既に言及している、女性解放運動、カウンターカルチャー、環境運動などのことであり、著者はそこで、こういった通称ではこれらの運動の本質を言い表すことができない、と述べている。 そして今度はこの箇所で、前述したあれらの運動は正確に言うならばこういうものなのだ、と述べているのである。落合恵子の翻訳ではそういう原文の脈絡も理解できなくなってしまう。著者の言っていることを読者にまるで伝えずに、訳者が自分の言いたいことだけを述べているのだ。
思うに落合は他人の著作をダシにして自分が語りたいだけで、著者の言葉を正しく伝えるという考えがそもそも根本的に欠落している人間なのだろう。
 
 
 

*1:「これほど好きな『海からの贈りもの』を、あらためて翻訳すること……。それは、二十数年来の読者であるわたしにとって、大いなる喜びと興奮(まるで、はじめて海を前にしたような)でありながら、同時に、大いなるためらいを伴う作業でもあった。」 落合は訳者あとがき (p.158) でいかにも謙虚な口ぶりで語っている。だが果たして落合にそんな 「ためらい」 が本当にあったのか。実際のところ、落合恵子は 「これほど好きな」 本に対して実に自由気まま、好きなように翻訳を行っている。落合が好んで説く 「柔軟性」 や 「しなやかさ」 とはこういうことなのかと思わされる。ことのついでに言っておくが、「大いなる」 という言葉は 「偉大な」 という意味もあわせ持つのであって、自分自身に関する事柄に 「大いなる」 という形容を用いることは大袈裟過ぎて普通はしない。なぜ単純に 「大きな」 で済ませられず、文章を無意味に飾り立てるのか。

*2:「まだまだ不十分であり、誰もが認める運動の域に達しなければならない」 という自分の願望を他人の著作の中に勝手に書き加えているわけだ。落合恵子という作家は本当にどこかが歪んでいるとしか言い様がない。「まだまだ〜していない。」 などと落合節の調子もいよいよ高い。

*3:他にも例えば 「新しい役割の季節を迎えた」 (p.148) というように、「時期」 で済むところをわざわざ 「季節」 と比喩で書くのがこの訳者の趣味であるようだ。だが 「季節」 という比喩ならば 「廻り来ては過ぎ去って行く」 という意味を伴うのであり、このようなろくに意味を考えていない比喩表現の乱用はポイントを外した感傷的な表現でしかない。程度の低い安物の文学趣味。