第9回 「社会的に目覚しい活動をした女たち」というとんでもない嘘

 
この落合恵子の翻訳ぶりは本当にあきれかえるような馬鹿げた代物で、落合のフェミニズムとはどういう類のものか、そのためとあればどういうことを仕出かすのか、そういった落合の愚かさ、たちの悪さが言い逃れしようもない形で露わになっている。

落合の訳文は以下の通りである。

なぜ、社会的に目覚しい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったかということである。禁欲とか子どものことに関係があるのではないかとかつて考えたことがあったが、そうではなく、まず「気が散ること」を避けるためだったのではないだろうか。 (p.26)


だがアン・モロウ・リンドバーグの原文は以下の通りであって、「社会的に目覚しい活動をした女たち 」 などというデタラメは原文には全く存在しない。原著のどこを読んでもそんな表現は出てこない。*1

I begin to understand why the saints were rarely married women. I am convinced it has nothing inherently to do, as I once supposed, with chastity or children. It has to do primarily with distractions. (p.22,23)


吉田健一はこれを以下のように訳している。

なぜ、女で聖者だった人たちが稀にしか結婚しなかったかを理解する。それは私が初め考えていたように、禁欲とか、子供とかいうこととは、本質的には関係がなくて、何よりもこの気が散るということを避けるためだった。 (p.27)


原文の赤色の部分をそのまま訳せば、「なぜ聖者たちに結婚した女性が稀であったか」 となる。
《saint》 の意味は 「聖者」、「聖人」 である。落合の馬鹿げた訳文は原文と正反対と言っていいほど全く違っている。「女の聖者たち」 、「女の聖人たち」 と当然訳すべき箇所を 「社会的に目覚しい活動をした女たち」 と書き変えるなど、著者を侮り原文を蔑ろにした全く愚かで野蛮な行為であり、到底容認することはできない。*2
著者アン・モロウ・リンドバーグはこの文章の前後でも、《saint》《saintly life》 と同様の表現を繰り返しており、原著のどこを読もうが落合が記したような表現は全く出て来ない。落合恵子が自分のフェミニズムの立場に都合が良いように自分勝手な訳文を捏造しているだけだ。
そしてこのような捏造をしたばかりに、次の 「禁欲」という言葉は場違いに浮いて文章がちぐはぐになってしまっている。社会的に目覚しい活動をするような女たちは禁欲を心掛けるものだと考えていた、とでも落合は言うのだろうか。馬鹿らしくて話にならない。*3
原文の英語はごく簡単な表現であり、間違いでこんな訳文ができるわけはないのだ。落合の翻訳は全く愚劣で悪質なものであって、このようなものを 「女性的」 だの 「読みやすい」 だのといって賞賛するのもまた愚かな行為であると言う他はない。   
  
 

この新訳でより多くの人に読まれるようになったことは間違いないが、デタラメな落合の訳文によってアン・モロウ・リンドバーグという作家が判断されてしまうのはむしろ不幸なことだ。
意外なことに、各章の扉などにスケッチ風のイラストを描いているのは著名なアニメーション映画監督である、りんたろう氏。
 
 
 

*1:「もし、いまの時代にアンが 『海からの贈りもの』 を書いたとしたら……あの時代においてはそれがやむを得ないことだったとしても……「女の聖者」 とは書いたりしないのではないか。そう、わたしは考える。」 落合の言い逃れを考えるならこんなところか。

*2:しかしある意味ではこれほど解りやすく見え透いた愚行もない。フェミニズムを看板にする女性作家が他人の著作の中に勝手に 「なぜ、社会的にめざましい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったか」 などと書き入れるという、まるで戯画のような愚かな行為に驚かされる。この翻訳を読むまで落合について詳しく知るところはなかったので特に先入観を持つこともなく読んだのだが、このような愚かな行為を平気でする人間であったことを知って非常にあきれ、そして強い怒りを覚えた。

*3:吉田健一訳でも 「禁欲」 と訳されているが、《chastity》the state of not having sex with anyone と説明されており、むしろ 「純潔」 と訳す方が適当だと思われる。そしてそのように訳すと落合訳は一層おかしなものになる。