第23回 著者になりすまして落合恵子が感慨を語る

 
落合恵子はこの箇所でも、著者が書いてもいないことを勝手に書き加えている。

次に感じたのは、実に素朴な困惑( 誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう )であった。 さらにそれは、フェミニストによって、女たちにもたらされた、大いなる勝利という歓迎すべき驚きと結びついている。(p.145)


まず、( 誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう )というような言葉は原文原著のどこを探しても出てこない。あるいは、著者がどこか他のインタビューか何かでそのような発言をしていたのを落合は覚えていて、それをここに挿入したという可能性も考えられなくはないが、そうであるなら当然それについての注釈などがなければならない。何よりここまでの落合の翻訳ぶりを見る限りそのような可能性は到底考えられず、これは落合恵子が自分の訳文の不自然さを誤魔化すために勝手に書き加えたと考えるのが自然だろう。
著者になりすまして訳者が感慨を語る。
全く異常な行為としか言い様はないが、落合は訳者あとがきにおいて著者アン・モロウ・リンドバーグの気持ちと溶け合うことができたなどとさも満足げに語っており、あるいは落合のあの特徴的な頭は普通の人間には聞こえない声を受信できるのかもしれない。
 
そしてその前の 「実に素朴な困惑」 も全く原文と違っている。ここをいきなり 「実に素朴な困惑であった」 と訳してみても脈絡のないまるで唐突な文章でしかなく、なぜ著者がそのような困惑を覚えたかという説明に全くならない。そこで落合は、「自分が昔に書いたものを久しぶりに読み返したなら、誰だって困惑を覚えるというものだろう」 という表現を勝手に付け加え、「特に理由はないが誰だって普通そうなるだろう」 という事にして、それで文章の辻褄を合わせようとしたのだろう。だが原文の 《an embarrassed astonishment》 が意味しているのは、「実に素朴な困惑」 などではなく、「当惑をともなった驚き」 である。そこに 「素朴な」 という意味の英語は使われていない。

後半の訳文も全くひどいもので、「大いなる勝利という歓迎すべき驚き」 などという大げさで醜い言葉は原文には全く存在しない。それにしても何と醜悪で馬鹿げた言葉だろうか。まるで北朝鮮のアナウンサーの弁舌のようだ。また 「素朴な困惑」 がどうして 「歓迎すべき驚き」 と結び付くことになるのかも全く理解できない。(落合恵子の訳文の腹立たしさの一つは、アン・モロウ・リンドバーグの原文は至って論理的で明晰な文章であるのに、落合の手に掛かった訳文はまるで脈絡が不明な朦朧とした文章になっていることだ。)


原文は以下の通りである。

Next comes an embarrassed astonishment at re-reading my naïve assumption in the book that the “victories” (“liberation” is the current word, but I spoke of “victories”) in women's coming of age had been largely won by the Feminists of my mother's generation. (p.123,124)


《an embarrassed astonishment》 「当惑をともなった驚き」 であり、 《my navïe assumption》 「私の素朴な仮定」 であって、そしてそれが何についての仮定かというと、《(“victories”) had been largely won by the Feminists of my mother's generation》 「“勝利”の大部分は私の母の世代のフェミニスト達によって既に成し遂げられていた」 という仮定である。
ここの英文のおおよその意味は、「自分の本を再読してみたところ、当時の私は、私の母の世代のフェミニスト達によって“勝利”の大部分は既に成し遂げられていたと素朴に考えていて、そのことに非常に驚きまた当惑した。」 ということだ。落合恵子の愚劣な訳文は著者の言葉を少しも伝えていない。


また直後に続く以下の訳文は、もはやどの箇所がとかではなくほとんど全てが原文と違った極めてひどいものである。こんなものを誤訳と言ったりしたらもう上等過ぎて、これは捏造か虚言とでも言うべきものだ。落合のこのひどい訳文でどうにか原文と対応している言葉は 「多くの勝利」 くらいしかない。

控え目に見たとしても、かなり多くの勝利を勝ちとることができたし、その闘いはいまもまだ現在進行形で続いている。(p.145)


原文は以下の通りである。

I realize in hindsight and humility how great and how many were―and are―the victories still to be won. (p.124)


《hindsight》 は 「後知恵」 とか、「その時はわからず後になってから初めてわかること」 という意味である。 《humility》 は 「謙遜」 や 「謙譲」 や 「卑下」 といった意味であり、英英辞典の記述に拠るなら、「自分が他の者よりも優れているとは考えないこと」、というのが 《humility》 の意味である。
「私は《hindsight》《humility》 の中でようやくそのことを理解した」、と著者の原文は言っているのだ。落合はここを 「控え目に見たとしても」 などと訳しているが、それは全く間違っている。これらを踏まえて訳せばおおよそ次のようになるだろう。
  
その後もいかに大きな、いかに多くの勝利が成し遂げられねばならなかったかを、そしてなお成し遂げられねばならないかを、恥ずかしながら私は後になってから理解した。
  
こうなって初めて、その前の文章と意味がつながる。