第27回 なぜこんな単純な英文すらまともに訳せないのか

 
落合恵子は 「しなやかさ」 や 「柔軟性」 がそんなにもお気に入りか。

しかし努力としなやかさ、そして夫の共感と支持を得て、あおい貝の旅に出航することに成功する者もいる。(p.148)


原文は以下の通りである。

But with effort, patience and a sympathetic and supportive husband, one wins through to the adventure of an “Argonauta”. (p.126)


これ以前の箇所でも落合は 「忍耐」 と訳すべき 《patience》 という言葉を 「柔軟性」 などと訳したり「おおらかさ」 などと訳したりしていたのだが、今度は 《patience》 を 「しなやかさ」 と訳している。 フェミニスト落合恵子は 「忍耐」 という言葉がそれ程までに嫌いなのか、それとも 「しなやかさ」 や 「柔軟性」 がよほどのお気に入りなのか。確かに落合の翻訳ぶりは実に “柔軟性” 豊かで自由気ままなものではあるが。
 
少々ぎこちないが上の英文をその通りに訳せば大体このようになるだろう。
しかし努力と忍耐、そして共感的で協力的な夫とともに、「あおい貝」の冒険の旅を成功させる者もいる。
 
また原文の意味するところは、夫と一緒に 「あおい貝」 の冒険の旅を成功させる、ということなのだが、落合の訳文であると、夫の共感と支持を得て妻は自分一人で 「あおい貝」 の旅に向かう、という意味に読めてしまう。 と言うか、まさにそれが落合の思い描くところなのかもしれないが。
 
 
同じページから。完全に誤訳であり、また日本語の文章としても意味が理解できない。

夫と私は、わたしたちのものと呼べる終の住処、マウイの島で、このあおい貝の日々を送った。私のあおい貝の日々はしかし、夫の死によって、突然、単調な持続を重ねるだけの日々に陥ってしまった。(p.148)


原文は以下の通り。

My husband and I even named our last home, on the island of Maui, “Argonauta”. For me, because of my husband’s death, the Argonauta stage was sadly of very brief duration. (p.126)


まず前半の 「わたしたちのものと呼べる終の住処、マウイの島」 というのが日本語として意味不明で、またこの英文からどうやったらこんな訳文が生まれるのかと不思議に思う奇怪な誤訳であるが、その次の 《very brief duration》 を 「単調な持続を重ねるだけの日々」 と訳しているのはもはや原文と少しも対応していない完全にデタラメな文章でしかない。落合恵子は大学で英米文学を専攻していたと聞いているが、このごく簡単な英文のどこをどう訳したらこんな日本語としての意味もよく解からない奇妙な “ポエム” が出来上がるのか不思議で仕方がない。
《brief》 という形容詞には 「言葉が少なく簡潔な ・ 素っ気ない」 という意味もあるが、落合はまさかそこから 「単調な」 という訳を思いついたのだろうか。それこそ発想が “柔軟” すぎる。この英文に難しいところは一つとしてなく、《very brief duration》 をそのまま訳せば 「とても短い期間」 である。
また、「突然」 も原文から全く逸脱している。しかしこれはどういう誤訳だと考えたらよいだろうか。大学では部活も英語部だったという勉強家の落合女史がまさか 《sadly》 《suddenly》 とうっかり読み間違えたなどとは到底考えられないのだが。
一体何のつもりなのか、本当に著者の言葉を伝える気持ちがあるのか。全く意味がわからない。


以下に訳し直す。たったこれだけの簡単な文章だ。
夫と私は、マウイ島にある二人の最後の家に 「あおい貝」 という名前までつけた。しかし悲しいことに、夫の死によって私の 「あおい貝の時」 はあまりにも短い期間で終わってしまった。



次の箇所も原文からの逸脱が目に余る。

わたしはふたたび、癒しのためのレッスンと向かい合わなくてはならなかった。(p.148,149)


原文は以下の通り簡潔なもので、「癒しのための」 というような通俗的な表現はどこにもない。

I am again faced with woman's recurring lesson. (p.126)

 
《recurring》 は、「繰り返しやって来る」 といった意味である。
著者はすぐ後の文章で、女性は人生において大体二十年ごとにこのレッスンを学び直さなければならないようだ、と書いている。落合恵子はそのつながりも全く無視しているわけだ。

この 《recurring》 はそういう意味であるのに、「癒しのための」 などと安っぽく通俗的なことを書かれてはアン・モロウ・リンドバーグが誤解されてしまう。*1
 
 
 

*1:落合は別の箇所でも 《nourish》 という語を 「癒してくれる」 (p126) などと訳している。だが 《nourish》 は 「養う、育てる」 という意味である。安易に用いられる 「癒し」 という表現が通俗的でまた自己陶酔的あるのは、「癒し」 という表現が 「傷ついている」 という前提を含意しているのにそのことに考えが及んでいないからだ。言葉に鈍感であるのだ。