第1回 落合恵子が訳した『海からの贈りもの』はひどい翻訳

 
アン・モロウ・リンドバーグ *1の代表作である Gift from the Sea の邦訳は、吉田健一の翻訳で『海からの贈物』として1956年に*2新潮社から出版され、のち1994年に落合恵子による新訳が『海からの贈りもの』として立風書房から出版された。どちらも長い年月にわたって読まれている本だと言えるだろう。

だが落合恵子による『海からの贈りもの』は翻訳がひどい。
これは落合の翻訳には誤訳が多いというようなことを言っているのではない。アン・モロウ・リンドバーグの原文に対して、落合恵子は言い訳のしようもない身勝手な歪曲や改変を意図的に繰り返し行っている。そのことに気づいたのは半年ほど前のことで、翻訳家 山岡洋一氏の 「翻訳通信」 というサイトで、吉田健一訳の『海からの贈物』と落合恵子訳の『海からの贈りもの』の訳文を比較して論じている記事を読んだことに始まる。

とは言え、そこで落合の翻訳が特に批判されていたわけではない。
山岡氏が引用した落合の訳文は冒頭のごく一部分であって、またその論旨は、吉田訳が文句なしの名訳であってこれに劣る落合訳も悪くはないがそれは下敷きにした吉田訳があってのこと、といったまず穏便なものであり、吉田訳がいかに名訳であるかを論じるために落合訳が引き合いに出されている形だった。*3 実際、そこに引用されていた落合の訳文は特に大きな問題がある程のものではなかった。

私が読んでいたのは吉田訳の『海からの贈物』で、長くこれに親しんでいた。そしてちょうど 「翻訳通信」 の記事を目にする少し前に原著を購入したところであったので、これを機に原文と比較しながら二つの翻訳を読んでみようという気になり、落合恵子による『海からの贈りもの』も入手することにした。最初は、原著を読みつつ吉田訳と落合訳の文体的な違いを見てみようという程度の軽い考えだった。

ところが落合訳の『海からの贈りもの』を読み始めたところ冒頭の数ページで強い違和感を覚える箇所が幾つか目にとまり、そこでそれらを原著に照らし合わせてみると、落合の訳文は原文と大きく違ったものであることがわかった。
それ以降は読んでは付箋を次々とページに貼り付けていくような仕儀となった。そして原著と比較しながら一冊を全て読み通した結果、この落合の新訳には、単なる誤訳では済まされない落合恵子による意図的な歪曲や改変などが多いということが明らかになった。 

落合恵子による『海からの贈りもの』は端的にひどい翻訳である。
吉田健一訳の『海からの贈物』と比較して見ると一段落ちる、相対的に劣る、どころの話ではない。
それが訳者の無知や誤解から生じた単なる誤訳程度の問題だったら、わざわざこの様な形で取り上げて批判を加えることもなかった。だがこの落合の翻訳はそんなものではない。吉田訳の『海からの贈物』を何度も読んだと自ら語っている落合は完全に承知の上で身勝手な訳文を作っているのであって、訳者の落合恵子が自分の主義主張を優先して著者アン・モロウ・リンドバーグの言葉を蔑ろにした翻訳、原著を歪めて汚した翻訳だと言わざるを得ない。
ブログやレビューなどでは、堅く難しい文体の吉田訳に対して女性らしい言葉で書かれた読みやすくわかりやすい落合訳、といった素朴な感想をしばしば見かけるが、これは翻訳の文体や訳者の感性の違いなどで語られるような問題なのではない。*4 もちろんのこと、英文解釈における両者の考えの相違ということでもない。また軽々しく吉田訳と落合訳それぞれ味があってどちらの訳も良いなどというのは全く無責任な態度であると言う他はない。
一方の翻訳が正確であるのに対し、他方の翻訳は不正確であるのみならず不誠実であるのだ。単に間違いが有るか無いかの問題ではない。事は原著を大事にしているかしていないかだ。
私は、原著を大事にしない落合恵子の思い上がりを許し難いものと思っている。

翻訳を行う者には著者とそして読者に対しての責任*5がある。原文解釈の幅を越え出た間違いであることが明白な翻訳に対しては、ちゃんと指摘が為され時に批判が加えられて然るべきである。
落合は翻訳の仕事も多い作家であるが、『海からの贈りもの』の翻訳からは落合が著者の言葉を軽々しく扱う様が見て取れた。一事が万事と言う。*6 また今日では原著は簡単に手に入りこうした形で誰でも発表することができる。デタラメな翻訳がばれずに済んだ昔とは違う。このような好き勝手が見過ごされるばかりではないということを落合の今後のためにもはっきり示しておこうと思う。
ならばいっそのこと落合が代表を務めるクレヨンハウスにでも宛てて直に問い質すべきなのかとも考えた。しかしこのような歪曲や改変を承知の上で平然と繰り返すような人間にそもそも誠実な対応を期待することはできない。また改版でもあった際に、何食わぬ顔でこっそり訂正されているというのも一層業腹になる。
何より、落合恵子の翻訳の問題というのは単なる間違いなどではなく落合恵子が犯した欺瞞なのであり、落合がそのような行いをしておきながら心に何らやましさを感じることのない人間であるということは明らかになった方が良いと考える。こうして敢えて表沙汰にする次第である。


次の回より例文を挙げてそれらの問題点を具体的に指摘していく。
勢い批判が細かな点にまで及ぶこともあるが、それは落合の翻訳ぶりへの怒りの大きさの故であるとご理解いただきたい。
 
 
*以降の記事は下方向にあります。(従って内容の順序は日付と逆行しています。)

*翻訳のひどさに応じてカテゴリー分けをしてあります。

*引用文の太字強調部分はブログ筆者によるものです。

青文字の訳文はブログ筆者によるものです。

落合恵子訳 『海からの贈りもの』 は1996年版のものです。

吉田健一訳 『海からの贈物』 は平成17年版のものです。

*英語原文は2005年版 Pantheon Books のものです。

*「長くて読んでいられない」という方はこちらをどうぞ。
 
 
 
追記
先頃、山岡洋一氏が逝去されたことを知りました。
山岡氏の翻訳論に触発されることがなければ、落合恵子による『海からの贈りもの』を検めることもなかったでしょうし、その翻訳の問題をこうして明らかにすることもなかったでしょう。そして何よりアン・モロウ・リンドバーグの英文をここまで意識的に読むこともなかったでしょう。深く感謝致します。
山岡洋一様、ありがとうございました。
2011年 10月6日
 
 
 

*1:アン・モロウ・リンドバーグ Anne Morrow Lindbergh1906年-2001年 )はアメリカの女性作家であり、また女性飛行家の先駆けの一人としても知られている。大西洋単独無着陸飛行の偉業を成し遂げて一躍その名を世界に知らしめたチャールズ・オーガスタス・リンドバーグと結婚、自らも飛行機操縦に関する知識と技術を学んで彼の飛行に同行するようになる。その体験をもとに最初の作品である North to the Orient を1935年に発表した。1955年に発表された内省的エッセイ Gift from the Sea は彼女の代表作として長く読み続けられている。

*2:文庫本として出版されたのが1967年で、もとの単行本は原著出版の一年後である1956年に出されている。

*3:おそらく山岡氏は落合訳の『海からの贈りもの』の一部に目を通しただけなのだろう。全てを読むまでもなく優劣は明らかだと判断されたのに違いない。山岡氏の記事の表題は 『本物と偽物』 である。

*4:落合の翻訳を 「わかりやすい、読みやすい」 と喜んでいる手合いの言うことは全く理解できないのだが、落合の『海から贈りもの』は原著を満足に読まずに吉田訳を自分の理解力のレベルでリライトして出来たと思われる代物で、彼らの 「わかりやすい、読みやすい」 という安易な評価はそのような意味においては確かに首肯できる。

*5:はっきり言ってしまえば、落合の行為は著者と読者に対する裏切りである。

*6:言うまでもなく、私は落合の他の翻訳も怪しいものだと疑っている。長年の愛読書だ、これほどまでに好きな本だ、などと思い入れを熱心に語ってみせる本に対してすらこれだけ身勝手な行いができる人間であるのだ。それで他に落合の翻訳の評判は何かないものかと探していると、コラムニストの小田嶋隆氏が落合の手がけた洋楽の訳詞についてブログで言及されているのを見つけた。 「自分勝手な意訳」、 「腐った訳詞」「殺人的にひどい翻訳」 だと酷評されている。おそらくその通りだろう。