第4回 落合恵子は本当に自分で原文を読んだのか

 
落合恵子の訳文には、本当に自分で一つ一つ原文を読んだ上で訳したのかと疑わせる不自然な点が多い。
以下は落合の訳である。

そうして二週間目のある朝。漂うだけだったわたしの心が目覚め、働きはじめる。都会のそれとは違う、あくまでも、海辺での覚醒、海がもたらす智恵とでも言ったらいいだろうか。目覚めた心は、海辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、巻き上げられたりしはじめる。(p.12)


だが原文はこのようになっている。

And then, some morning in the second week, the mind wakes, comes to life again. Not in a city sense―no―but beach-wise. It begins to drift, to play, to turn over in gentle careless rolls like those lazy waves on the beach. (p.10)


どうも落合の精神は簡潔に書くということに耐えられないらしい。
著者は 「漂うだけだった」 などという余計な言葉を書いてはいない。この勝手な書き加えは単に無駄であるばかりでない。落合は文章の脈絡を考えもせず軽々しく単に雰囲気だけで言葉を並べていて、その結果、文章は前後で辻褄が合わなくなってしまっている。*1 漂うだけだった心が目覚め、そして目覚めた心はまた漂いはじめる、などという落合の訳文は余りにずさんなものだ。アン・モロウ・リンドバーグがこんな雑な駄文を書くものだろうかと問うのも空しい。落合の文章は締まりのない情緒や気分に安易に流され、意味的に破綻してしまっている。


比較に吉田健一訳を上げる。

そして二週間目の或る朝、頭が漸く目覚めて、また働き始める。都会でも同じ形ではないが、浜辺の生活なりにである。それは浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。 (p.14)


吉田健一の 「浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。」 という表現は原文直訳ではない意訳であって平均的な訳文ではない。だが落合の 「浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上げられたりし始める。」 という訳文は吉田訳の表現とほとんど同一であり、吉田訳を丸写しにしているだけだと言ってもいい。*2 そして言い回しに自分らしさを出そうとして、無駄な言葉を書き加えてわざわざ駄目にしているのだ。
この英文を自分で一つ一つ日本語に置き換えていった結果、偶然にも吉田訳そっくりの落合のあの訳文が出来上がったというようなことはまず考えられない。吉田健一の訳文を丸写しにしてそれに無用な手を加えた結果このような辻褄の合わない無様な文章になってしまったと考える方が自然だろう。



また次の箇所、一見正しいようだが、これも誤りである。

結局いつも、本は一行も進まず、鉛筆の芯は折れ、雲ひとつない空と同じ状態の何も書かれないままの紙を持ち帰ってくるのだが。
 海辺でわたしは、本を読みもしなければ、何も書かない。ものを考えることさえしない。少なくとも、海に来たはじめのうちはそうだ。
(p.11)


原文は以下の通り。

The books remain unread, the pencils break their points and the pad rest smooth and unblemished as cloudless sky. No reading, no writing, no thoughts even -at least, not at first. (p.9,10)


結局本も読まず何も書くこともせずいつも海辺から帰ってくるかのように落合は訳しているが、そのような表現は原文には無い。これ以降の章を読めば明らかだが、著者は海辺の滞在中に本を読んだり文章を書いたりしている。
だいたい落合自身も 「少なくとも、海に来たはじめのうちはそうだ。」 と記しているのに、これではまたも前後の辻褄が合わない。
このような箇所を目にするたびに、落合は本当に原著を読んだのだろうかという疑念を抱く。


吉田健一訳は以下の通りである。

そして本は読まれず、鉛筆は折れて、紙は雲一つない空と同じ状態のままになっている。読みもしなければ、書きもせず、ものを考えさえもしない。 ― 或いは少なくとも、初めのうちは、である。 (p.13)

 
 
 

*1:文章が乱脈であるのは思考が乱脈であるからだ。

*2:例えば、《lazy waves を逐語的に訳していけば 「気だるそうな波」 といった辺りがまず大方で、「砕ける波」 という訳は誰でも同じように思いつくようなものではない。