第6回 女の家事労働はこんなに大変だと10回も勝手に書き加える

 
ここの訳文は落合の主義主張のための加筆の多さが目に余る。
赤色の部分は全て落合恵子が勝手に書き加えたものであり、わずか2ページ程の間に 「女の仕事はこんなにも多い」 と10回も加筆されている。
あらかじめ注意しておくが著者の原文の主旨は落合が意図するものとは大きく異なっており、落合のこの加筆は原文の主旨を強調する類いのものではない。

わたしが選択した妻であり母であるということは、およそさまざまな雑事で構成されている。
 郊外にある一軒の家。その家を維持していくために、わたしたち女が使う労力。わずかでも誰かの手助けがあればいいほうで、ほとんどの場合、それさえも望めない。ということは、女は家事に追われて、自分のことは何もできないということである。*1
 食べもの、住居、料理、買いもの、請求書の整理、さまざまな予定等々。それらのすべてが、女の領域とされている。
( 中略 )それに家族の健康の問題もある。医者や歯医者の予約。診察の時間の確認。各種の薬や肝油やビタミン、そして薬局までのひとっ走りもまた、女の仕事だ。
 精神的、知的、肉体的な意味における教育に関しても、女たちの仕事は尽きない。学校、学校関係の集まり。そのための駐車場さがし。*2 バスケットボールの試合も見なければならないし、オーケストラの練習にもつきあわなければならない。家庭教師とのあれこれや、キャンプの用意もある。さらにキャンプ場に必要な道具を揃え、それを運んでいくのも、女の仕事である。
 それから、衣類のこと。買いもの、クリーニングに出すにしても洗濯するにしても、女の仕事はここにもこんなにある。繕い、スカートの丈を長くしたりつめたり、ボタンをつけたり等々。女の仕事に、これで終りというゴールはない。自分の代わりにそれをやってくれる人を探さなければならない場合でも、探すのもまた女の仕事である。
 夫や子どもたち、そして自分の友人関係の中で、手紙や招待状を書いたり、電話をしたり、送り迎えに絶えず気を配っていなければならないのも、わたしたち女である(p.21,22,23)

 
同じ箇所を吉田健一はこのように訳している。
「女の仕事は云々」 というようなことは一言もない。

私が選んだ妻、及び母としての生活は凡そいろいろな面倒なことで満たされている。それは郊外にある一軒の家と、次には、我々多くのものにとっては全然ないか、或いは殆どないのに近い手伝いの問題、でなければ、家事に追われて何もできないということを含んでいる。それは食べものや住居の問題、料理や、家計簿や、買いものや、請求書や、なんとかして収支を合わせることを含んでいる。 ( 中略 ) また家族の健康ということもあって、医者や、歯医者や、診察の時間や、薬や、肝油や、ビタミンや、薬屋まで出掛けて行くことがその中に入る。また精神的な、或いは知的な、或いはまた肉体的な教育の面では学校や、学校での集会や、自動車の駐車場や、バスケット・ボール、或いは管弦楽団の練習や、個人教授や、キャンプや、キャンプ生活に必要な道具や、輸送の問題がある。それから衣類のこと、またそのための買いもの、洗濯屋、洗濯、繕い、スカートを長くしたり、ボタンを付けたり、或いは自分の代わりにそれをやってくれる人を見付けるということもある。それから私の夫にも、子供たちにも、また私自身にも友達があって、友達が集まるのには手紙や、招待状や、電話、送り迎えのことで絶えず頭を使っていなければならない。 (p.23,24)

 
全てを引用するまでもないので一部に止めるが、著者の原文は以下の通りである。

The life I have chosen as wife and mother entrains a whole caravan of complications. It involves a house in the suburbs and either household drudgery or household help which wavers between scarcity and non-existence for most of us. It involves food and shelter; meals, planning, marketing, bills, and making the ends meet in a thousand ways. (p.19)


落合は 「わたしたち女の仕事はこんなにも多いのだ」 という意味の文章を何度も加筆して、「現代の女たちはいかに多くの仕事をこなさなければならないか」 という主旨に原文を歪めている。
だがこの章で問題にされているのは、現代の人間の生活がいかに煩雑なものであるかということ、現代の私たちの生活は望ましい簡素なものではなく諸々の雑多なことがらで埋め尽くされているということであって、なぜ女の仕事はこんなにも多いのかということが問題にされているのではない。
著者は、私たちの生活を快適便利にしてくれる近代的な道具や、友人近隣との交際なども時に煩雑さをもたらす、と述べているのである。


「わたしたち女が使う労力。」
「女は家事に追われて、自分のことは何もできないということである。」
「それらのすべてが、女の領域とされている。」
「また、女の仕事だ。」
「女たちの仕事は尽きない。」
「それを運んでいくのも、女の仕事である。」
「女の仕事はここにもこんなにある。」
「女の仕事に、これで終わりというゴールはない。」
「探すのもまた女の仕事である。」
「絶えず気を配っていなければならないのも、わたしたち女である。」
 
あきれたことに落合はこのわずか2ページ程の間に 「わたしたち女の仕事はこんなにも多い」 と10回も書き加えているが、こういったうるさいアピールを著者は一切していない。


また原文が 《The life I have chosen》 と始まっていること、そしてまた落合恵子の訳文も 「わたしが選択した」 と始まっていることに留意してほしい。先に述べたようにこの章では、簡素な生活が大切であるということ、しかし現代の社会ではそれが容易ではないということが語られている。そしてアン・モロウ・リンドバーグは自分自身の生活を省みて、それが簡素とは程遠い煩雑なものであることを具体的に例を幾つも挙げて詳述している。上に引用した文章はその一部分である。この箇所はあくまで、著者自身が 「いまの私の生活はなんと煩雑なものであるか」 ということを語っている文章なのである。
ところが落合の思考は、「わたしが」 で始めた話をすぐにすり替えて、「わたしたち女」 の問題に拡げてしまうのだ。「郊外にある一軒の家」 という具体的な記述はもちろん著者個人の事情を示しているのに、次の文章ではいきなり 「その家を維持していくために、わたしたち女が使う労力。」 と言い出して 「わたしたち女」 という一般的な話題に変えてしまう。誰もがみな郊外に一軒家を持っているわけもないのに。  
「郊外にある一軒の家」 というのは、コネティカットにある著者の自宅を指しているのだし、この後の原文でも 《my modern house》、《my husband's, my children's》 と記されていて、著者が自らの生活を振り返って述べていることは明らかである。(ところがその箇所で落合は「わたしの家」、「わたしの夫、わたしの子供たち」とは訳していない。「わたしたち女」の話にするために落合はわざと 《my》 を訳していないのだ。浅ましい。)


吉田健一はアン・モロウ・リンドバーグのこの著作について、「一人の女が自分自身を相手に続けた人生に関する対話」 と評している。だが落合はそれを 「わたしたち女は〜」 という落合の演説に変えてしまっているのだ。そしてそういうことがこの箇所に限ったことではない。*3 *4
一人よがりの程度の低い読書体験にすぎないにせよ、とにかく落合が『海からの贈物』に感動したということはさすがに嘘ではないのだろう。だがその翻訳ぶりを見る限り、自分が感動を受けた作品を正しく伝えるということに関して落合恵子はほとんど関心が無いのだと言わざるを得ない。
おそらく落合にとって大事なのは作品の方ではなく陶酔できる自分の感動体験なのだろう。自分に感動を与えた作品に対しての畏敬や謙虚さというものが落合の翻訳には少しも見られないのだ。  
 
 
 

*1:この箇所は吉田健一にも落度がある。吉田訳でも 「家事に追われて何もできない」 と言う表現があるが、これに相当する原文は見出すことができない。著者はそこまで言ってはいない。しかし落合恵子はそれを改めることもなくそれどころか更にそこを強調して訳している。ということは、落合は誤訳をただ引き写してそのまま使っているということであって、本当に落合が自ら原文を読んでそれから自力で訳文を作っていったのだとしたらそうなるわけはない。こういう次第から私は、落合恵子は原文を読んで自分で訳した後に吉田訳を参照したのではなく、吉田訳か或いは誰か他の下訳を自分の都合に良いように書き変えたのちに、申し訳程度に原文に目を通しただけなのではないかと考えている。

*2:吉田訳も「駐車場」となっているがこれは誤り。原文は car-pools で、通勤などで車の相乗りをすることを指す。「駐車場」だと意味が通らない。

*3:新潮文庫 『海からの贈物』 (p.130)

*4:私は翻訳を通して著者の言葉を聞きたいのであって、訳者の偏った主張が聞きたいわけではない。