第8回 翻訳者が自分の価値観を紛れ込ませる

 
落合恵子の翻訳の問題というのは、翻訳の出来不出来の問題である以前に、落合恵子の心構えの問題だと言わざるを得ない。この箇所の翻訳は、落合には無条件に否定しなければならない物事がまず存在していて、それを否定しようとする衝動を他人の著作の中であっても自制することができないということを示している。


以下のように落合恵子の訳文は否定的な表現が前面に出されている。

そして、こんなにも問題を持ったアメリカ人の生活が、現代、世界の人びとの一つの理想になっているのだ。(p.24)


だが原文は以下の通りである。

since life in America today is held up as the ideal of a large part of the rest of the world. (p.21)


「こんなにも問題を持った」 などという極端に否定的な表現はこの原文のどこにも存在しない。またこれ以外の箇所においても著者はアメリカがそんなに問題だらけであるかのように書いてはいない。ここで著者が論じているのは1950年代のアメリカであるが、落合は現代のアメリカについての落合自身の批判的な考えを押し込んでいるのだ。


対して、吉田健一による翻訳はこのように適切なものである。

それはアメリカ人の生活が今日では世界の他の国々に住む多くの人たちによって一つの理想にされているからである。 (p.26)


もう一つ落合が歪曲した訳文を挙げる。いったい誰によって女たちは 「馴らされている」 と落合は言うのだろうか。聞くまでもない事だが。

わたしたちは、すべての人を受け入れるように馴らされている。夫を、子どもたちを、友だちを、近隣の人たちを。(p.25)


「馴らされている」 という訳文には、「本来そうでない筈なのに、あの者たちによってわたしたちはずっとそうさせられてきたのだ」 という落合の思惑が見て取れる。以下の通り原文にはそんな意味は無い。

We must be open to all points of the compass; husband, children, friends, home, community; (p.22)


「こんなにも問題を持った」 にしても 「馴らされている」 にしても、どうして落合恵子という人間は自分の都合を優先して原文に存在しない余計な表現を付け加えてしまうのか。
 
 

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