第16回 著者と反対のことを言う

 
この箇所の落合の訳文はもう翻訳とか誤訳とか以前の問題であり、日本語として全く矛盾した、首を傾げてしまうようなおかしな文章になっている。

島では、言葉によるコミュニケーションは、無言の交感にとって代り、どんな言葉よりわたしたちの心を癒してくれる。(p.126)


しかしこれは一体どういう間違いだと解釈したらいいのだろうか。これが誤植とかでないとすれば、落合恵子という作家は 「〜にとってかわる」 という日本語を完全に間違って使っていたということである。これでは文章が前後で全く矛盾しているのだから。*1

落合は全くどういう考えでこんな意味の通らない支離滅裂な文章を書いたのだろうか。「言葉によるコミュニケーションは、どんな言葉より私たちの心を癒してくれる」 などという馬鹿な文章を。
全く逆だ。 「無言の交感は、言葉によるコミュニケーションにとって代り、どんな言葉よりわたしたちの心を癒してくれる」 でなければ日本語の文章として成り立たない。落合恵子のこの訳文は、原文を確認するまでもないような、日本語として矛盾した全くおかしな文章であるのだ。


吉田健一訳は次のように至って妥当な訳文である。

話をする代わりに交感するのであって、そのほうがどんな言葉よりも私たちを力づけてくれる。 (p.116)


そして原文はこうなっている。

Then communication becomes communion and one is nourished as one never is by words. (p.108)


このごく簡潔な英文がなぜあのような馬鹿げた訳文に成り果てたのか、それは結局理解することができない。
ただ 《communication becomes communion》 という原文の表現から推測すると、落合がもらった下訳は 「言葉によるコミュニケーションは無言の交感にかわり」 という至って適切なものだったのだが、簡潔な文章表現が気に入らない落合はもっと凝ったかっこいい表現にしたいと考え、言葉の意味がわかっていないくせに浅はかにも 「無言の交感にとって代わり」 と書き足してしまい結果このような矛盾した馬鹿げた文章になってしまった、ということなのかもしれない。*2



次の箇所からも、落合恵子はろくにこの原著を読んでいないのだろうという印象を受ける。落合はここでも著者が述べていることと全く逆のことを書いているからだ。

島では、わたしに代わって、島が暮らしを選んでくれる。きわめて自然に、技巧をこらさずに。その選択は少しも押しつけがましいところがなく、それでいて量は豊かだ。この島ではさまざまな経験をするが、それも決して多すぎない。(p.126)


ここも全くおかしな翻訳である。
「それでいて量は豊かだ。」 などと馬鹿なことを書いている辺りで、落合恵子は原文がちゃんと読めていないということ、そして落合にはそもそも原文をちゃんと読もうという考えが無いのだということがわかる。原文で著者は 「量は豊かだ」 などということは一言も言っていない。むしろ全く逆のことを述べているからだ。


吉田健一は同じ箇所を以下のように適切に訳している。

島での生活は私の代わりに選択してくれるが、それは極めて自然な具合にである。そしてそれは量の問題であって、ものの性質によってではない。この島ではいろいろな種類の経験をするが、それが決して多過ぎないのである。 (p.116)


そして原文は以下の通りである。

Island living selects for me, but it is a natural, not an artificial selection. It selects numerically but not in kind. There are all kinds of experiences on this island, but not too many. (p.108,109)


原文の後半は以下のように書き換えることができて、

Island living selects numerically. But island living doesn't select in kind. There are all kinds of experiences on this island, but not too many.

島の生活は数量の面で選択する。だが島の生活は種類の面では選択することはない。いろんな種類の経験がこの島にはあるが、その量が多過ぎるということがない。と訳すことができる。


ここで言われていることは、「島ではいろいろな種類の経験をするが、その経験することが量的に多過ぎるということがない」 ということである。もう少し読み進むとそれは具体的に述べられていて、都会での生活では自分と似通ったような人たちとの交流がほとんどだが、島では年齢から仕事から様々な人たちと会うことができる、ということが書かれている。更に言えば、都会では沢山の人と会うけれど大抵は自分とそう懸け離れていない人たちで、島で会う人は多くはないけれど自分とは違った色々な人たちに出会える、ということだ。

つまりここの主な意味は、「島の生活は、種類は多様なのだが量的には多過ぎない」 ということであって、著者の文章は 「種類」 と 「量」 の対比によって明確に構成されている。対して、「都会の生活は量においては充分過ぎるまでに多いが、種類においてはむしろ豊かでない」 と著者は述べていると言って良いだろう。量の多さなど著者は少しも重要だと考えていない。 それなのに何を思ったか、「それでいて量は豊かだ。」 とまるで見当違いで馬鹿な訳文を落合は書いている。原文のこの明確な対比を無効にした落合恵子の翻訳は、著者が込めた意味を全く読めていないと言わざるを得ない。


また細かくなるが、「島が暮らしを選んでくれる。」 という訳も正確でない。そうではなく、「島での暮らし」 が主語で、「島での暮らしが交流のあり方を選んでくれる」 と著者は述べているのだ。

それから 「きわめて自然に、技巧をこらさずに。その選択は少しも押しつけがましいところがなく、」 という訳は余りに冗漫でありまた落合の 「独創」 が過ぎている。「押しつけがましいところがなく」 などとは一言も書かれてはいない。ここの英文は、「自然に、そして人為的でなく」 程度のごく簡潔な表現である。
奇しくも、「多すぎず、技巧をこらさず、押しつけがましくなく」 というのはまさしくアン・モロウ・リンドバーグの文章に相応しい言葉だと言えるのだが、落合の訳文はちょうどそれと正反対の 「言葉が多く、技巧を弄し、押しつけがましい」 ものであって、そのような人間が Gift from the Sea の翻訳を手掛けることになったのは実に皮肉なことでありまた残念な次第だ。*3
 
 
 

*1:どうあれ、これを担当した編集者はいったい何を読んでいたのか。はっきり言うが落合の無知を指摘できなかった編集者も駄目だ。

*2:例えば、落合訳 (p.104) では 「探検にはまず大胆な仮説が必要であり」 とあるのだが、原文には 「大胆な」 などという形容詞はない。「探検にはまず仮説が必要であり」 とシンプルに書くことが落合にはできないのだ。そこでもう一つ余計な言葉を盛らないと気が済まないらしい。とは言え意味的に破綻はしてないので「大胆」の語意はさすがに落合も理解できていたようだ。

*3:須賀敦子は絶筆となった『遠い朝の本たち』のなかで、吉田健一訳の『海からの贈物』の一節を引用した後に次のように書いている。 「半世紀まえにひとりの女の子が夢中になったアン・モロウ・リンドバーグという作家の、ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念は、この引用を通して読者に伝わるであろう。何冊かの本をとおして、アンは、女が、感情の面だけによりかかるのではなく、女らしい知性の世界を開拓することができることを、しかも重かったり大きすぎたりする言葉を使わないで書けることを私に教えてくれた。徒党を組まない思考への意思が、どのページにもひたひととみなぎっている。」 (ちくま文庫 p.113,114) 落合にこの箇所を読ませてやりたい。

 第17回 一休み  「あおい貝」 と 「たこぶね」 ‐ 《Argonauta》

 

Argonauta argo 「あおい貝」*1  




Argonauta hians 「たこぶね」*2


二つの翻訳どちらでもそのことは書かれていないが、《Argonauta》 は実は貝の仲間ではなく蛸の一種で、貝殻のように見える物はその雌が自身の周囲に形成する薄い外殻である。*3
《Paper Nautilus という別名が示すように非常に薄く壊れやすいものであるらしく、著者アン・モロウ・リンドバーグも標本として見たことがあるだけだと記している。*4

落合恵子訳では 「あおい貝」 、吉田健一訳では 「たこぶね」 となっている。「あおい貝」 と 「たこぶね」 、どちらも 《Argonauta》 なのだが、このように見た目も学名も多少違っており、厳密に言えば両者は別物になるようだ。
他にも写真を探して比べて見たところ、総じて 「あおい貝」 はやや扁平で表面のうねが細かく密であり、また 「たこぶね」 はより黒ずんだ色あいだと言える。
個人的な印象を述べるなら、「たこぶね」 からは生き物が形づくった生々しさを感じ、「あおい貝」 からはむしろ彫刻や建築のような無機的な構造物を連想した。
 
 
 

かつては著者名がリンドバーグ夫人と表記され、近年の版になってアン・モロウ・リンドバーグに改められた。旧版よりも文字が大きくまた余裕をもって組まれてあって読みやすい。表紙絵も二見彰一氏による抽象的な銅版画から写実的な貝のイラストにかわった。
この新版の表紙に大きく描かれているのは 「あおい貝」 であるが、右下に一部が描かれている貝はこの著作とは全く関係のないもの。左下の貝は色が紫色なのが文中の描写とだいぶ異なるが、あるいは 「ひので貝」 を描いたものかもしれない。
 
 
 

*1:写真は山口県立山口博物館 http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=330より。

*2:写真は鳥羽水族館 http://www.aquarium.co.jp/shell/gallery/hyouzi.php?nakama=tousokuより。

*3:ややこしくなるが、 「あおい貝」 の殻を作る蛸を 「かいだこ」 と呼び、 「たこぶね」 の殻を作る蛸を 「ふねだこ」 と呼ぶようだ。

*4:「紙のように薄いオウムガイ」 とでも言ったところだろうか。

 第18回 「多数派の悪によって凌駕される」という意味不明のひどい日本語

 
まず意味不明な落合恵子の訳文から。

未来への競争をしている内に、現在=「いま」 は見すごされ、自分から遠く離れた「どこか」のために、自分がいる 「ここ」 は見すごされ、個人は多数派の悪によって凌駕されている。(p.138)

 
この 「多数派の悪」 という奇怪な言葉が何を意味しているのかを説明できる人間は(書いた落合本人も含めて)間違いなく一人もいないだろう。
私は落合の 「多数派の悪によって凌駕されている」 という訳文をはじめて読んだ時、アン・モロウ・リンドバーグがこんな意味もわからない程度の低い文章を書くはずがないとまず思った。


アン・モロウ・リンドバーグの原文は以下の通りである。

The present is passed over in the race for the future; the here is neglected in favor of the there; and the individual is dwarfed by the enormity of the mass. (p.118)


これを吉田健一は以下の様に訳している。

未来への競争で現在は脇へ押しやられ、自分から離れた場所のことが取上げられて、自分が現にいる場所は無視され、個人は多数によって圧倒されている。 (p.126)

 

落合は 《enormity》 を 「悪」 とし 《mass》 を 「多数派」 として、「多数派の悪によって凌駕されている」 という訳文にしているが、まず何よりこれでは日本語として意味が理解できない。一冊の終り近くにきて突如語られる 「多数派の悪」 という言葉で落合は一体何者を糾弾しているのだろうか。さらにもっと基本的なことから言えば、そもそも 「凌駕」 という日本語の理解から間違っている。落合恵子は意味もわかっていない言葉を並べて翻訳を行っているのだ。
「凌駕」 という言葉の意味は 「他のものを越えてその上に出ること」 であり、「悪によって凌駕されている」 という落合の訳文は日本語の表現という観点だけで見てもまるで間違っている。おそらく吉田訳の 「圧倒」 という平易な表現が落合女史のお気に召さなかったのだろう。それでもっと難しそうで語感が強く、意味ありげでかっこ良く見える言葉にしたいとつまらない欲を出したのだろうが、理解できていないうろ覚えの言葉を確かめもせず気分だけで使ってしまうからこういう大袈裟なだけの意味のない無様な訳文が出来上がる。*1 *2
調べると落合はこの時49歳、若書きという年齢ではない。あやふやな感性に任せて文章を書き散らすことは慎んで、落合にはまず辞書を引くという地道な習慣を身につけてもらいたいものだ。


ではこの 《enormity》 はどう解すべきだろうか。
確かに英和辞書には 「非道、極悪」 というような説明もあるが、まず 「巨大さ、莫大なこと」 という説明がちゃんと記されている。*3 そして 《enormity》 という英語がそもそも 「尺度、ものさし」 という意味の言葉が元になっていることを考えれば、ここでの意味合いは 「度を外れて大きいこと、途方もなく大きいこと」 といったことだろう。*4 ここで 《enormity》 が意味しているのは 「悪」 などではない。
それから、《mass》 を 「多数派」 と訳すこともできない。 《majority》 ではないのだ。ここでアン・モロウ・リンドバーグが述べている 《mass》 というのは、私たちがあまり考えないままなんとなく 「世界中の人たち」 と言う場合のような、抽象的に把握された膨大な数の人間の存在のことである。だが落合恵子の訳文は、まるで何か巨大な悪の組織によって個人が脅かされているかのようになっている。


そしてこの 《enormity》 の意味合いは、直前にある動詞の 《dwarfed》 によって、より理解することができる。《dwarf》 は、名詞であれば『白雪姫』などのファンタジーにしばしば登場する小人、「ドワーフ」 のことであり、動詞であれば「小さくする、発育を妨げる」などの意味になる。文字通りに解するなら 「小人にする」 とも訳せるかもしれない。

つまりこの英文は、《the enormity of the mass》 によって個人は 《dwarf》 にされてしまっている」 という形なのであって、ここの原文は「巨大な存在と矮小な存在」という明確な対比を成すように構成されている。単に 「小さくする」 という意味の表現なら他にもあるわけで、アン・モロウ・リンドバーグははっきりとした意図をもって、イメージを喚起する力の強い 《dwarf》 という単語を選んでいる筈である。
それなのに落合恵子《enormity》 を 「悪」 などと訳してしまって、著者が文章に込めたものを台無しにしているのだ。
   
 
 

*1:落合の訳文を女性らしい言葉づかいだとか瑞々しい感性だとか言って喜んでいる手合いも見られるが、「凌駕されている」 などという仰々しいこけおどしの表現に 「女性らしさ」 や 「瑞々しい感性」 など微塵も感じることができない。こういうところにむしろ落合の程度の低い地金が顔を出していると私は見る。

*2:このような見かけばかりで中身のない空疎な言回しは他にも指摘できる。あるいは落合の文章の特徴だと言えるかもしれない。吉田健一が 「私の生活の中に或るしっかりとした軸があること」 (p.20) とごく簡潔に訳しているところを、落合は 「自分の生活の核に、いつもたしかな座標軸があること 」 (p.19) と訳している。単なる 「軸」 では不満だったのか、わざわざ落合は「座標軸」 という言葉を選んだ。原文の表現は 《a central core to my life》 (p.23) であって、著者はこのことを車軸に喩えて述べてもいるので、ここを 「軸」 と意訳した吉田訳は納得できる表現である。だが 「座標軸」 というのは簡単に言ってしまえば数学のグラフのx軸y軸のことであって、著者が説いた回転する中に安定した中心を持つということとはまるで違う。落合は著者の文章をただ表面的にしか読んでおらず、その上自分が選んだ 「座標軸」 という言葉が何を意味しているかもわかっていない。おそらく単に 「軸」 と訳すと文章が平凡でかっこ悪いと感じて、字面と響きがかっこ良いと思ったからなんとなく 「座標軸」 という複雑そうに見える言葉を選んだだけなのだ。別に考えは無いのだ。そうして吉田訳に無駄に手を加えてかえって駄目にしてしまっている。簡素であることの重要性はこの著作で繰り返し説かれている事柄だが、皮肉なことに落合の訳文は全く簡素なものではない。冗漫で大袈裟で意味のない空疎な言葉が多用されている。文体の好き嫌いといった曖昧な問題ではなく、二つの翻訳には優劣が歴然としてある。

*3:《enormity》 の 「極悪」 というような語義は、「度を外れたこと、とんでもないこと」 という意味合いから派生したものだろうと推察される。

*4:ラテン語《norma》 が基で、例えば 《normal》 「ノーマル」 という英語もここから来る。

 第19回 女は被害者だと書き加えることはやはり怠らない

 
まず落合恵子の訳から。
不遇の中にあっても女たちは本当に大事なことを決して忘れることがなかった、といった形に歪曲されている。

女は、家庭というひとつの限定された空間で暮らすことを余儀なくされた。そして、家庭を構成するのは、個々の人間であるという独特な感覚を忘れずにきた。
女は、「いま」という瞬間の自然の姿を、「ここ」という空間のかけがえのなさを決して忘れたことはない。(p.140)


落合の無駄に長い訳文とは違って、原文はごく簡潔なものである。

In the small circle of the home she has never quite forgotten the particular uniqueness of each member of the family; the spontaneity of now; the vividness of here. (p.119)


この原文の根幹は、「この大事な三つを女は忘れたことがない」、たったこれだけである。
「暮らすことを余儀なくされた。」 という表現は原文には全く無く、「女は家庭にずっと閉じ込められていたのだ」 という落合の個人的な考えを加筆しているに過ぎない。「余儀なくされた」 というのは、「けっして望んだことではないが、他に手立てもなくやむを得ず」 ということである。そもそも原文は一文であるのに、落合はそれをわざわざ区切って二つの文章にまでして 「余儀なくされた。」 などと書き加えている。これでは著者がそこに重点を置いているかのような印象になってしまう。全くこの訳者のすることはたちが悪い。
また、「家庭を構成するのは、個々の人間であるという独特な感覚」という訳もデタラメで全くの誤りである。*1 「感覚」という訳語は一体どこから出てきたのか。
 
吉田健一の翻訳は以下の様に適切なものである。

女は家庭という一つの狭い範囲で、その家庭をなしている一人々々に認められる独自のものを、また、今という時間の自然な姿を、また、ここという場所の掛け替えのなさを決して忘れたことがない。 (p.127)

 
 
 

*1:「家庭を構成するのは、個々の人間である」 と感じるのは、至って普通の感覚だと思うが、一体どこを 「独特の感覚」 と見るのだろうか。意味が解らないが、ことによると 「男たちには持ち得ない、女性特有の」 という意図があるのかもしれない。

 第20回 《patience》を「おおらかさ」と訳す落合恵子の「しなやかな」感性

 
この結びの文章においても、落合は著者アン・モロウ・リンドバーグの表現から大きく逸脱した書き変えをしている。

波の音が、わたしの背で繰り返しささやいている。*1
……おおらかさ、……豊かさ、……包容力、と。(p.141)


原文は以下の通りである。

The waves echo behind me. Patience - Faith - Openness, is what the sea has to teach. (p.120)


最後の 「包容力」 は問わないとしても、著者は 「おおらかさ」 とも 「豊かさ」 とも書いてはいない。《patience》 の意味するところは 「忍耐」 である。全く意味が違う。冒頭で落合は 《patience》 を 「柔軟性」 などとデタラメに訳していたが、今度はまた 「おおらかさ」 などと好き勝手に訳している。
これは著者が述べていることを翻訳し読者に伝えようとしたのではなく、「海=おおらか」、「海=豊か」 という、落合の単純で安易な連想をただ書き連ねたのに過ぎない。
 
 
吉田健一はこのように訳している。

波音が私の後ろから聞こえてくる。忍耐、― 信念、― 寛容、と海は私に教える。 (p.128)

 
 
 

*1:波の音が 「ささやいている」 と、落合は原文とは違う擬人的な表現に書き変えてしまっているが、著者がそのような表現を選ばなかったことに考えを致さないのは思慮が足りないと言わざるを得ない。「ささやく」 という述語は、二者の間の距離や関係がごく近いことも含意している。「海」 と 「わたし」 をそのような関係において気安く並ばせるのは安手な感傷と陶酔でしかない。このような落合の程度の低い通俗的な感性によってこの著作が日本において多くの読者を得たのだとしたら、それは決して喜ばしいことではない。

 第21回 一休み   その他の貝など

 
吉田健一訳『海からの贈物』より。

ここの浅瀬の温かい水の中を渡って行くと、大袖貝の群れが片足で立ち、かしぱんが泥に幾つも嵌め込んだ大理石の賞牌のように横たわり、無数の極彩色のおおのがいが水の中で光って、蝶の羽も同様に開いたり、締まったりしている。 (p.110)


原文はこうなっている。

Here in the shallow flats one finds, wading through warm ripples, great horse conchs pivoting on a leg; white sand dollars, marble medallions engraved in the mud; and myriad of bright-colored cochina-clams, glistening in the foam, their shells opening and shutting like butterflies' wings. (p.101,102)
  

「大袖貝」 に当たるのが 《horse conch》 であり、「かしぱん」 に当たるのが 《sand dollar》 であり、「おおのがい」 に当たるのが 《cochina-clam》 である。
以下にそれらの画像を紹介する。



Horse Conch*1海からの贈りもの落合恵子
  


Sand Dollar*2

  
  
Coquina*3海からの贈りもの落合恵子翻訳


最後の 《cochina-clam》 であるが、これは 《coquina-clam》 の間違いではないかと思われる。真ん中の綴りが 《chi》 ではなく 《qui》《cochina》 で探しても貝は出て来ずまた英単語としても見つからず、出てくるのはスペイン語のあまり品の良くない俗語としてのみだった。*4
Pantheon Books 講談社英語文庫、二つの原著どちらも 《cochina》 となっているが、こういう別の綴りがないのだとすれば、これはやはり誤植であるかまたは著者の聞き違いや誤記であると思われる。
  
  
 

*1:写真はiloveshelling.com http://www.iloveshelling.com/blog/category/seashells/conch/horse-conch/より。成長すると人の顔より大きなものになるようだ。

*2:写真はiloveshelling.com http://www.iloveshelling.com/blog/category/sand-dollar/より。《Sand Dollar》 は貝ではなくウニの一種。コインに擬してそう呼ばれる。また何か軽い焼き菓子のようにも見え、実際、《Sea Biscuit》《Sea Cookie という呼び名もあるのだという。これはその死んだ外骨格の部分。つまり殻。

*3:写真はiloveshelling.com http://www.iloveshelling.com/blog/category/seashells/coquina/より。 まるでカラフルなキャンディのように見える。「極彩色」 という吉田健一の訳語が少しも大げさなものでない。こちらのサイトを見ていると南の海の貝というのはなんと綺麗なものであるかと思う。

*4:《Coquina》 という貝の呼び名の方も同じくスペイン語から来ているようだ。

 第22回 新しく書き加えられた章の翻訳は間違いだらけデタラメだらけ

 
落合恵子による新訳の『海からの贈りもの』には、原著が出版された20年後の1975年に著者アン・モロウ・リンドバーグが新たに書き加えた章も収められている。落合はその訳者あとがきにおいて、この新しい章を日本の読者に伝えたいと思った、それが翻訳を進めるモチベーションの一つだったと述べている。*1
 
さて、これ以前の章には吉田健一による旧訳があるので落合はそれを利用して訳文を作ることができたのだが、この章だけは “お手本” が無い状態で翻訳に取り組んだわけである。恐らくそのせいだろう、この新しい章の翻訳は他と比べて間違いが飛び抜けて多い。この章は原文で7ページほどのごく短いものなのだが、その短い訳文が間違いだらけだと言っても言い過ぎではない。しかも至って簡単な英語表現の翻訳においてすら落合は間違えている。

また原著英文の意味とかけ離れているというだけでなく、単に日本語文として見ても意味不明な文章が幾つもあるのだが、仮にも作家でありながらそういう意味の通らない稚拙な文章に対して疑問も抱かずにいられることが不思議でならない。( さらに言えば、こうした意味の通らない不出来な訳文を見過ごしてそのまま世に出した担当編集者の仕事にも大きな問題がある。)

そして何より、この章は比較される吉田訳がないからばれる心配もないと調子に乗ったのか、落合恵子が自分のフェミニズムの立場に都合が良いように原文を歪めたデタラメな翻訳が次々と現れる。ごく簡単に言うとこの章の翻訳は、「この20年女たちは素晴らしい勝利を収めた。だがこれからが本当の闘いだ。」 という実に落合らしい主張へと歪められている。
 
かつて落合による新訳が書店に並んで間もない頃、この新しい章の訳文を少しばかり読んだことがあるのだが、20年という年月を経て著者アン・モロウ・リンドバーグの思考や言葉がすっかり硬直してしまったかに思えて、非常に残念な印象を受けて本を閉じたことをよく覚えている。しかし今回あらためて原文と比較して読んで、その残念な印象は落合恵子の “しなやかな感性”による 翻訳のせいだったということが判明し、ようやく安堵することができた。そしてまた同時に落合に対する怒りは一層強いものになった。

 
次よりその翻訳の問題点を取上げていく。
 
 
 

*1:「それでも敢えて翻訳をすすめたのは、七〇年代に、著者アン・モロウ・リンドバーグによって新しく書き加えられた一章を、わたしと同じようにこの本を愛してきた読者に伝えたいという思いがあったから」 などと落合はいかにも誠実そうでもっともらしいことを語っている。だが実際のところ、落合によるその新しい章の翻訳は全くデタラメと偽りだらけの、アン・モロウ・リンドバーグの言葉を歪めたものでしかない。気づかずに間違えて訳してしまったのとは違うのだ。落合は言っていることと実際にやっていることが全く違っている。言うこととすることが裏腹な人間のことを 「嘘つき」 と言う。

 第23回 著者になりすまして落合恵子が感慨を語る

 
落合恵子はこの箇所でも、著者が書いてもいないことを勝手に書き加えている。

次に感じたのは、実に素朴な困惑( 誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう )であった。 さらにそれは、フェミニストによって、女たちにもたらされた、大いなる勝利という歓迎すべき驚きと結びついている。(p.145)


まず、( 誰でも昔に書いたものを読めば、困惑を覚えるだろう )というような言葉は原文原著のどこを探しても出てこない。あるいは、著者がどこか他のインタビューか何かでそのような発言をしていたのを落合は覚えていて、それをここに挿入したという可能性も考えられなくはないが、そうであるなら当然それについての注釈などがなければならない。何よりここまでの落合の翻訳ぶりを見る限りそのような可能性は到底考えられず、これは落合恵子が自分の訳文の不自然さを誤魔化すために勝手に書き加えたと考えるのが自然だろう。
著者になりすまして訳者が感慨を語る。
全く異常な行為としか言い様はないが、落合は訳者あとがきにおいて著者アン・モロウ・リンドバーグの気持ちと溶け合うことができたなどとさも満足げに語っており、あるいは落合のあの特徴的な頭は普通の人間には聞こえない声を受信できるのかもしれない。
 
そしてその前の 「実に素朴な困惑」 も全く原文と違っている。ここをいきなり 「実に素朴な困惑であった」 と訳してみても脈絡のないまるで唐突な文章でしかなく、なぜ著者がそのような困惑を覚えたかという説明に全くならない。そこで落合は、「自分が昔に書いたものを久しぶりに読み返したなら、誰だって困惑を覚えるというものだろう」 という表現を勝手に付け加え、「特に理由はないが誰だって普通そうなるだろう」 という事にして、それで文章の辻褄を合わせようとしたのだろう。だが原文の 《an embarrassed astonishment》 が意味しているのは、「実に素朴な困惑」 などではなく、「当惑をともなった驚き」 である。そこに 「素朴な」 という意味の英語は使われていない。

後半の訳文も全くひどいもので、「大いなる勝利という歓迎すべき驚き」 などという大げさで醜い言葉は原文には全く存在しない。それにしても何と醜悪で馬鹿げた言葉だろうか。まるで北朝鮮のアナウンサーの弁舌のようだ。また 「素朴な困惑」 がどうして 「歓迎すべき驚き」 と結び付くことになるのかも全く理解できない。(落合恵子の訳文の腹立たしさの一つは、アン・モロウ・リンドバーグの原文は至って論理的で明晰な文章であるのに、落合の手に掛かった訳文はまるで脈絡が不明な朦朧とした文章になっていることだ。)


原文は以下の通りである。

Next comes an embarrassed astonishment at re-reading my naïve assumption in the book that the “victories” (“liberation” is the current word, but I spoke of “victories”) in women's coming of age had been largely won by the Feminists of my mother's generation. (p.123,124)


《an embarrassed astonishment》 「当惑をともなった驚き」 であり、 《my navïe assumption》 「私の素朴な仮定」 であって、そしてそれが何についての仮定かというと、《(“victories”) had been largely won by the Feminists of my mother's generation》 「“勝利”の大部分は私の母の世代のフェミニスト達によって既に成し遂げられていた」 という仮定である。
ここの英文のおおよその意味は、「自分の本を再読してみたところ、当時の私は、私の母の世代のフェミニスト達によって“勝利”の大部分は既に成し遂げられていたと素朴に考えていて、そのことに非常に驚きまた当惑した。」 ということだ。落合恵子の愚劣な訳文は著者の言葉を少しも伝えていない。


また直後に続く以下の訳文は、もはやどの箇所がとかではなくほとんど全てが原文と違った極めてひどいものである。こんなものを誤訳と言ったりしたらもう上等過ぎて、これは捏造か虚言とでも言うべきものだ。落合のこのひどい訳文でどうにか原文と対応している言葉は 「多くの勝利」 くらいしかない。

控え目に見たとしても、かなり多くの勝利を勝ちとることができたし、その闘いはいまもまだ現在進行形で続いている。(p.145)


原文は以下の通りである。

I realize in hindsight and humility how great and how many were―and are―the victories still to be won. (p.124)


《hindsight》 は 「後知恵」 とか、「その時はわからず後になってから初めてわかること」 という意味である。 《humility》 は 「謙遜」 や 「謙譲」 や 「卑下」 といった意味であり、英英辞典の記述に拠るなら、「自分が他の者よりも優れているとは考えないこと」、というのが 《humility》 の意味である。
「私は《hindsight》《humility》 の中でようやくそのことを理解した」、と著者の原文は言っているのだ。落合はここを 「控え目に見たとしても」 などと訳しているが、それは全く間違っている。これらを踏まえて訳せばおおよそ次のようになるだろう。
  
その後もいかに大きな、いかに多くの勝利が成し遂げられねばならなかったかを、そしてなお成し遂げられねばならないかを、恥ずかしながら私は後になってから理解した。
  
こうなって初めて、その前の文章と意味がつながる。
 
 
 

 第24回 《rock》は「封鎖」ではない

 
以下は落合恵子の訳。
書いた本人も説明できないであろう全くお粗末な訳文である。「政治的、経済的封鎖」 などというデタラメは一体何のことなのか。

ここ数年の出来事を振り返ってみよう。
わたしたちは、四人の大統領を迎え、そのうちのひとりを暗殺によって失った。わたしたちは、あの長く、分裂的な、そうして良心そのものを枯らしてしまう戦争の悲劇と直面してきた。わたしたちは、科学とテクノロジーの、破壊に向けての 「進歩」 を目の当たりにしてきた。わたしたちは、人間が月を歩くのを観た。政治的、経済的封鎖を体験した。この力学はいまもって世界に広がっている。(p.146)


原文は以下の通りである。

To look back on those years is sobering experience. We have lived through the terms of four presidents and the assassination of one. We have wrestled with the tragedy of a long, divisive and conscience-searing war. We have witnessed shattering advances in science and technology. We have watched a man walk on the moon. We have been rocked by political and economic tremors that are still in force and worldwide. (p.124)


アン・モロウ・リンドバーグは 「政治的、経済的封鎖」 などというおかしなことを書いてはいない。《political and economic tremors》「政治的、経済的な震動」 によって、《have been rocked》 「揺り動かされ」 と書いているのだ。落合はどこから「政治的、経済的封鎖」 などという異常な訳語を思いついたのだろうか。まさか落合は 《rock》 《lock》 を間違えたのだろうか。 
 
直接的な形で述べられてはいないが、ここではケネディ大統領の暗殺、ベトナム戦争アポロ11号の月面着陸といったアメリカ史における出来事が述べられている。原文を読めば、《We》 アメリカ国民を指していることが理解できる。「わたしたちは政治的、経済的封鎖を体験した。」 というのは歴史事実的にもあり得ない記述なのであり、そういう点でもこの落合の訳文はおかしい。キューバの話とかではあるまいし落合は何を言っているつもりなのだか全く意味が解らない。(また「経済的封鎖」 という日本語の意味は理解できるが、「政治的封鎖」 という言葉は寡聞にして初めて聞く言葉であり、どのような状況を指すのか理解できない。)
 
次に、「この力学」 という日本語も意味が解からない。*1 「この」 はいったい前文のどこを受けているのか。落合はまさか 「政治的、経済的封鎖」 が全世界に広がっているとでも言いたいのだろうか。アン・モロウ・リンドバーグの原文はそんなとんでもない事態を論じてはいない。ここは 「政治的、経済的な震動は今なお続き、そしてそれが世界的なものになっている」 ということだ。

 
また、「わたしたちは、四人の大統領を迎え、」 と書いているのに、その直前では 「ここ数年の出来事を振り返ってみよう。」 となっているのもまるで考えていないおかしな訳文である。ここは Gift from the Sea が出版された1955年からの20年間を著者が振り返っている箇所なのだ。日本の首相交代ではあるまいし、たった 「数年」 の間に四人の大統領などあり得ない話だ。幅はあるにせよ日本語でいう 「数年」 が10年に満たないことは間違いない。これはもう翻訳以前の問題で、とにかく落合は文章が雑すぎる。
それから、「破壊に向けての「進歩」を目の当たりにしてきた」 という訳だが、著者の原文には 「破壊に向けての」 というまでの批判的な意味合いはないだろう。またわざわざかぎカッコを付けて 「進歩」 と書いてしまうあたりも、著者を差し置いての科学や技術に対する落合個人の意見が聞こえてきて耳障りである。*2
 
 
私はアン・モロウ・リンドバーグの原文を読んで、彼女は文章を書くに際して言葉を一つ一つ慎重に選びそれを丁寧に置いていったという印象を強く受けたのだが、落合恵子の翻訳からは全く逆の印象を受けた。言葉の表面的なイメージに安易に流されるまま訳文を綴り、ちゃんと意味の通らない雑な文章を無頓着に書き散らす、という感じだ。
能力の低さもだが、落合恵子アン・モロウ・リンドバーグの文章を訳すのにそもそも全く相応しくない人間、全く不適任な人間であると断言する。
 
 
 

*1:《force》 を 「力学」 と訳したということだろうか。デタラメが過ぎる。「力学」 という言葉も一度きちんと辞書を引いて意味を調べたほうがいい。

*2:こういう 「 」 は否定的あるいは批判的な意図を以って使われるものだ。カッコ付きで 「進歩」 と書いてあれば、本当の進歩だとは見ていないのだなと受け取られる。よく意味も分っていない言葉をやたらに使って雑な文章を書く落合だが、こういうところで変な工夫を見せる。

 第25回 「革命と社会運動の足音」とはどこの国の話か

 
どうも落合恵子はよほど革命が好きなようだ。

そうして、すべてのわたしたちは、革命と社会運動の足音を聞いた。その中の多くは、かならずしも全体的な意味においては、あまり認知された運動とは言いがたいが、いまもって前進を続けている。(p.146)


原文は以下の通りである。

All of us have been swept forward by the ground swells of revolutionary social movements, most of them still in progress and not wholly defined by their popular labels. (p.124,125)


「すべてのわたしたち」 という奇怪な日本語がもう何とも困った代物で指摘せずにはいられないが、まず 「革命と社会運動の足音を聞いた」 という訳が原文とまるで違っている。加えて 「〜の足音を聞いた」 という遠回しで曖昧な表現で落合は何を言おうとしたのか全く理解することができない。 原文がちゃんと理解できず明確に説明できない場合、曖昧な比喩表現を用いて誤魔化そうとするのは落合恵子の悪い癖だ。 *1
原文の大意は 「革命的な社会運動の大波」 によって 「前方に押し流された」 である。また原文の表現は 「革命的な」 であって、実際の 「革命」 ではない。「革命的な社会運動」 と訳すべきところなのに落合はそれを 「革命と社会運動」 という全く意味の違う訳文に変えてしまっている。「革命的な社会運動」 と 「革命と社会運動」 は全く別の事態だ。どうやら落合は 「革命」 という言葉がいたくお気に入りらしく、落合のこのような訳文のせいで、あたかもアン・モロウ・リンドバーグが現実の社会での革命に期待を寄せているかのような印象を与えてしまっている。


その次の 「全体的な意味においては、あまり認知された運動とは言いがたいが、」 という変に難解にした訳文も全く間違っている。
落合の訳文は日本語としても不自然で意味を読み取ることが難しい出来だが、この英文は最後の 《labels》 をそのまま 「ラベル」 と解することができれば簡単に読み解ける。「ラベル」、要するに外から貼り付けられた呼び名、通り名のことであり、そういった通称ではこれらの運動の本質を言い表すことはできない、というだけの話だ。アン・モロウ・リンドバーグが言っているのは、運動が世の中から認知されているかどうかという話ではない。
また 《still in progress》 は、運動は現在も力強く前進を続けていて頼もしい、というような( 落合が望んでいるであろう )意味合いではなく、 「まだ発展の途上で(見定められない)」 といった意味合いに解さなければその後の文章と整合しない。
 
大意は以下のようなものだろう。


それらの運動の多くはまだ発展の途上であるし、また一般的に知られているその呼び名によっては充分に定義できない。
 

あるいは、
それらの運動の多くはなお発展の途中であり、また一般的に知られているその呼び名によって充分に言い表されているわけではない。
 
 
 

*1:「〜の足音を聞く」 という比喩は、迫り来る出来事の予兆を感じるという意味で普通は使われると思うのだが、ではこの場合、単にその 「足音を聞いた」 というだけなのか、実際にその出来事が訪れたというのか、落合の文章は曖昧模糊としていて全く不可解である。

 第26回 フェミニズムの成果を誇張して翻訳する

 
落合恵子訳は以下の通り。まさか公民権運動を知らないとでも言うのか。

そういった運動の中でもっとも重要だと思うのは、市民の権利にかかわる運動、わたしたちがカウンターカルチャーと呼んでいるもの、女性解放運動、そして環境問題などである。そして、それらの活動の中で、女たちが多大な影響力を持ったことは特筆すべきことだ。それらの運動に 「女の……」 という名が冠されていない三者公民権の運動カウンターカルチャー、環境問題 )においても、女たちは自分たち自身の運動であると認識してきた。(p.146)


まず、後半の文章では一応 「公民権の運動」 と訳しているのだが、一体何が狙いなのか前半の文章では 「市民の権利にかかわる運動」 などと、原文を都合良く歪曲した全く異常な翻訳になっている。*1 こう書かれていれば、読者は現代の日本社会での市民運動のようなものを想像してしまうだろう。だが原文は 《the Civil Rights movement》 と、the が付いて最初の文字も大文字で表記されているのであり、もちろんこれはアメリカ史の中の出来事である公民権運動のことを指しているのに決まっている。要するに1950年代から1960年代のアメリカで拡がった黒人の人権に関する運動のことだ。落合が関心を寄せる日本の市民運動の話ではない。


原文はこの通りである。

Among those the most important seem to me to be the Civil Rights movement, the so-called Counter-culture, Women's Liberation and the Environmental Crisis. ( It is interesting to note that women has taken as influential a role in the three movements which do not bear her name as in the movement she calls her own.) (p.125)
 

次に、引用した原文を読めば判るように 「女たちは自分たち自身の運動であると認識してきた」 に相当する英文はどこにも無い。せめて好意的に解釈すると、落合は英文読解力の低さを持ち前の「しなやかな感性」で補って、《the movement she calls her own》 という英文を自分の都合の良い方に誤って解釈してしまったという辺りだろうが、これはそのような意味ではない。ここの英文は 《as in the movement she calls her own》 という区切りで読むのであって、 「女性たちが我々のものと呼ぶ運動( つまりは女性解放運動 )においてと同様に」 と解するべきところである。それを落合は、女性たちは他の三つの運動も自分たち自身の運動だと認識してきた、と歪めている。

また落合恵子は原文にあった( )を外して訳し、「女たちが多大な影響力を持った」 を主文に変えてしまっている。結果として、原文に比べると女性の活躍ぶりをずっと強調した( フェミニズムの“戦果”を強調した )文章に変えられている。だが原文の中心は、なかでも重要なのはこの四つの運動である、という文章であり、その後の文章は( )内に書かれた補記に過ぎない。
この短い英文が、女性たちの意識やフェミニズムの成果はこうでなければならないという落合の願望によって、このように歪められている。
  
試みに訳してみたものを載せる。
これらのなかで最も重要だと思われるのは、公民権運動、いわゆるカウンターカルチャー、女性解放運動、それに環境運動である。( 女性たちが自分たち自身の運動と同様に、「女性」 の名を冠していない他の三つの運動においても重要な役割を担ったことは重要なことであり、これを指摘しておきたい。)
 
あるいは、 
これらのなかで最も重要だと思われるのは、公民権運動、いわゆるカウンターカルチャー、女性解放運動、それに環境運動である。( 女性たちが、「女性」 の名を冠していない他の三つの運動においても、自分たちの運動においてと同様に影響力のある役割を担ったことは重要なことであり、これを指摘しておきたい。)

この程度の意味ではないか。
 
それからもう一つ言っておくと、この 《the so-called Counter-culture》 という表現は 「いわゆるカウンターカルチャー」 、つまり 「世間がカウンターカルチャーと呼んでいるもの(必ずしもそれが適切な呼び名だとは思わないが)」 という意味あいなのであり、落合の 「わたしたちがカウンターカルチャーと呼んでいるもの」 という訳は著者が意図しているものと逆の意味になってしまっていてまるで的外れな読解である。
 
 
 

*1:もちろん落合が公民権運動を知らないわけがない。わかっているのにある意図をもって敢えて 「市民の権利にかかわる運動」 と書き変えているのだ。

 第27回 なぜこんな単純な英文すらまともに訳せないのか

 
落合恵子は 「しなやかさ」 や 「柔軟性」 がそんなにもお気に入りか。

しかし努力としなやかさ、そして夫の共感と支持を得て、あおい貝の旅に出航することに成功する者もいる。(p.148)


原文は以下の通りである。

But with effort, patience and a sympathetic and supportive husband, one wins through to the adventure of an “Argonauta”. (p.126)


これ以前の箇所でも落合は 「忍耐」 と訳すべき 《patience》 という言葉を 「柔軟性」 などと訳したり「おおらかさ」 などと訳したりしていたのだが、今度は 《patience》 を 「しなやかさ」 と訳している。 フェミニスト落合恵子は 「忍耐」 という言葉がそれ程までに嫌いなのか、それとも 「しなやかさ」 や 「柔軟性」 がよほどのお気に入りなのか。確かに落合の翻訳ぶりは実に “柔軟性” 豊かで自由気ままなものではあるが。
 
少々ぎこちないが上の英文をその通りに訳せば大体このようになるだろう。
しかし努力と忍耐、そして共感的で協力的な夫とともに、「あおい貝」の冒険の旅を成功させる者もいる。
 
また原文の意味するところは、夫と一緒に 「あおい貝」 の冒険の旅を成功させる、ということなのだが、落合の訳文であると、夫の共感と支持を得て妻は自分一人で 「あおい貝」 の旅に向かう、という意味に読めてしまう。 と言うか、まさにそれが落合の思い描くところなのかもしれないが。
 
 
同じページから。完全に誤訳であり、また日本語の文章としても意味が理解できない。

夫と私は、わたしたちのものと呼べる終の住処、マウイの島で、このあおい貝の日々を送った。私のあおい貝の日々はしかし、夫の死によって、突然、単調な持続を重ねるだけの日々に陥ってしまった。(p.148)


原文は以下の通り。

My husband and I even named our last home, on the island of Maui, “Argonauta”. For me, because of my husband’s death, the Argonauta stage was sadly of very brief duration. (p.126)


まず前半の 「わたしたちのものと呼べる終の住処、マウイの島」 というのが日本語として意味不明で、またこの英文からどうやったらこんな訳文が生まれるのかと不思議に思う奇怪な誤訳であるが、その次の 《very brief duration》 を 「単調な持続を重ねるだけの日々」 と訳しているのはもはや原文と少しも対応していない完全にデタラメな文章でしかない。落合恵子は大学で英米文学を専攻していたと聞いているが、このごく簡単な英文のどこをどう訳したらこんな日本語としての意味もよく解からない奇妙な “ポエム” が出来上がるのか不思議で仕方がない。
《brief》 という形容詞には 「言葉が少なく簡潔な ・ 素っ気ない」 という意味もあるが、落合はまさかそこから 「単調な」 という訳を思いついたのだろうか。それこそ発想が “柔軟” すぎる。この英文に難しいところは一つとしてなく、《very brief duration》 をそのまま訳せば 「とても短い期間」 である。
また、「突然」 も原文から全く逸脱している。しかしこれはどういう誤訳だと考えたらよいだろうか。大学では部活も英語部だったという勉強家の落合女史がまさか 《sadly》 《suddenly》 とうっかり読み間違えたなどとは到底考えられないのだが。
一体何のつもりなのか、本当に著者の言葉を伝える気持ちがあるのか。全く意味がわからない。


以下に訳し直す。たったこれだけの簡単な文章だ。
夫と私は、マウイ島にある二人の最後の家に 「あおい貝」 という名前までつけた。しかし悲しいことに、夫の死によって私の 「あおい貝の時」 はあまりにも短い期間で終わってしまった。



次の箇所も原文からの逸脱が目に余る。

わたしはふたたび、癒しのためのレッスンと向かい合わなくてはならなかった。(p.148,149)


原文は以下の通り簡潔なもので、「癒しのための」 というような通俗的な表現はどこにもない。

I am again faced with woman's recurring lesson. (p.126)

 
《recurring》 は、「繰り返しやって来る」 といった意味である。
著者はすぐ後の文章で、女性は人生において大体二十年ごとにこのレッスンを学び直さなければならないようだ、と書いている。落合恵子はそのつながりも全く無視しているわけだ。

この 《recurring》 はそういう意味であるのに、「癒しのための」 などと安っぽく通俗的なことを書かれてはアン・モロウ・リンドバーグが誤解されてしまう。*1
 
 
 

*1:落合は別の箇所でも 《nourish》 という語を 「癒してくれる」 (p126) などと訳している。だが 《nourish》 は 「養う、育てる」 という意味である。安易に用いられる 「癒し」 という表現が通俗的でまた自己陶酔的あるのは、「癒し」 という表現が 「傷ついている」 という前提を含意しているのにそのことに考えが及んでいないからだ。言葉に鈍感であるのだ。

 第28回 「祖母の世代や夫を見送った女」という意味不明な翻訳

 
落合恵子は 「祖母の世代や夫を見送った女」 などという意味のわからない日本語でいったい何を言おうとしたのだろうか。

祖母の世代や夫を見送った女が、いままさに牡蠣のベッドにいる新しい世代の女たちに何を伝えることができるだろう。
まずは、賞賛、である。(p.149)


原文は以下の通りである。

What then has a grandmother and a widow to give the new generation of women in the oyster bed? Admiration, first of all. (p.126,127)


この英文を訳すなら大体このようになるはずだ。
では今や祖母となりそして夫にも先立たれた私が、今まさに「牡蠣のベッド」の段階にいる新しい世代の女性たちにいったい何を贈ることができるだろうか。何より賞賛である。


この英文の主語は著者アン・モロウ・リンドバーグ自身であって、《a grandmother and a widow》 が意味するのは 「祖母であり、そして未亡人である私」 ということだ。「牡蠣のベッド」 という言葉は人生のある時期を比喩的に表現したものであり、ここの大意は、「すでに子供たちは独立し夫も亡くした、そのような境遇の私が、今まさに夫と共に子供を育てている最中の現代の女性たちにいったい何を贈ることができるだろうか」 ということに他ならない。

落合は 「祖母の世代や夫を見送った女」 などというわけのわからない訳文でいったい何を言ったつもりだったのだろうか。さっぱり意味がわからない。唯一わかるのは、このフェミニズム作家はとにかく 「未亡人」 という言葉が嫌なので 「夫を見送った女」 と表現を工夫した、ということくらいだ。

落合の訳文を苦心して解釈すると、(祖母の世代や夫)を見送った女、という形になるか、(祖母の世代)や(夫を見送った女)、という形になるかだが、どちらにしたところで結局まともに意味を読み取ることができない。だいたいなぜ 「世代」 という訳語がここに引っぱり込まれるのか。どうも落合には訳文の辻褄が合わなくなると勝手に言葉を追加して誤魔化そうとする悪癖がある。

 
また二行目の 《Admiration, first of all.》 を 「まずは、賞讃である。」 と落合は訳しているが、結局その後の訳文で 「賞賛」 に続く次のことに全く触れていないので、この 「まずは」 という訳語も全く適切でない。
幾つか順に挙げていく事柄がある場合に 「まずは」 と切り出すものだ。もちろん原文で言われていることは 《Admiration》 の一つだけである。 「まずは、」 とあるから当然読む側は 「その次は」 と意識しているのに、結局その次が出て来ないままだから、落合の訳文は読者を混乱させる読みにくい文章になってしまっている。幾つかある訳語の候補の中から適切とはいえないものを選んでいるというだけでなく、何より読者の理解を混乱させるという点で落合のこの訳語の選択は駄目だ。
 
 
 

 第29回 平然と嘘を書く落合恵子

 
長年の愛読書とまで言う本を翻訳しているというのに落合恵子はなぜこのような嘘を平然と書くことができるのか。到底理解することができない。*1
落合恵子という作家を強く軽蔑し嫌悪する。


落合の訳は以下の通りである。アン・モロウ・リンドバーグの原文と全く違っている。

たぶん、この二十年間、女も男も、意識の目覚めや高揚という意味においては、素晴らしい進歩を遂げたはずだ。意識啓発と共に成熟するこれらの運動は、前述したように、まだまだ誰もが認める運動の域に達していない。*2 これからが成熟と拡大の季節なのだと思う。(p.150)


一つ目の訳文の 「意識の目覚めや高揚」 という表現からもうアン・モロウ・リンドバーグの原文と大きく違っているが、残りの訳文は本当にどうしようもない馬鹿げた代物である。原文と整合する言葉はせいぜい 「これらの運動」 と 「前述した」 くらいしかなく、ほとんどの部分に落合恵子の身勝手な独創性がうんざりするほど発揮されている。落合の訳文はあまりにも原文と相違したデタラメなものであるため、原文の相当している部分を示すことすらできない。

まず 「意識啓発と共に成熟するこれらの運動」 などという硬直した表現は落合恵子の勝手な加筆であり、そのような意味の文章は原著のどのページにも見つけられない。
そしてそれに続く訳文は誤訳どころではなく、捏造か虚言と呼ぶべきものであって、原文と合っているところが少しもない。あきれたことに落合は著者に成りすまして、「これらの運動は、まだまだ誰もが認める運動の域に達していない。これからが成熟と拡大の季節なのだと思う。」 などという大嘘を書き込んでいる。*3
一体どこで著者はそんなことを述べているというのか。「これらの運動」 というのは、女性解放運動、カウンターカルチャー、環境運動などを指しているのだが、落合は、女性解放運動などこれらの運動が今後さらなる盛り上がりを見せなければならないという自身の主張を他人の著作の中に勝手に書いているのだ。


原文は以下の通りである。

Perhaps the greatest progress, humanly speaking, in these past twenty years, for both women and men, is in the growth of consciousness. In fact, those movements I mentioned under their popular labels could be more truly described as enlargements in consciousness. (p.128)


原文のgrowth 《enlargements》 もぴったりと合った訳語を当てるのが難しいが、その大意が 「大きくなること」 であることには違いはない。おおよそ以下のように訳せるだろう。


おそらく女にとっても男にとっても、この二十年間での最も大きな進歩は、意識の成長においてであったと言えるだろう。実際、一般に知られている呼び名で先ほど言及したあれらの運動も、より正確には意識の拡大の運動であると言い表すことができる。


「あれらの運動」 というのは原著 (p.130) で著者が既に言及している、女性解放運動、カウンターカルチャー、環境運動などのことであり、著者はそこで、こういった通称ではこれらの運動の本質を言い表すことができない、と述べている。 そして今度はこの箇所で、前述したあれらの運動は正確に言うならばこういうものなのだ、と述べているのである。落合恵子の翻訳ではそういう原文の脈絡も理解できなくなってしまう。著者の言っていることを読者にまるで伝えずに、訳者が自分の言いたいことだけを述べているのだ。
思うに落合は他人の著作をダシにして自分が語りたいだけで、著者の言葉を正しく伝えるという考えがそもそも根本的に欠落している人間なのだろう。
 
 
 

*1:「これほど好きな『海からの贈りもの』を、あらためて翻訳すること……。それは、二十数年来の読者であるわたしにとって、大いなる喜びと興奮(まるで、はじめて海を前にしたような)でありながら、同時に、大いなるためらいを伴う作業でもあった。」 落合は訳者あとがき (p.158) でいかにも謙虚な口ぶりで語っている。だが果たして落合にそんな 「ためらい」 が本当にあったのか。実際のところ、落合恵子は 「これほど好きな」 本に対して実に自由気まま、好きなように翻訳を行っている。落合が好んで説く 「柔軟性」 や 「しなやかさ」 とはこういうことなのかと思わされる。ことのついでに言っておくが、「大いなる」 という言葉は 「偉大な」 という意味もあわせ持つのであって、自分自身に関する事柄に 「大いなる」 という形容を用いることは大袈裟過ぎて普通はしない。なぜ単純に 「大きな」 で済ませられず、文章を無意味に飾り立てるのか。

*2:「まだまだ不十分であり、誰もが認める運動の域に達しなければならない」 という自分の願望を他人の著作の中に勝手に書き加えているわけだ。落合恵子という作家は本当にどこかが歪んでいるとしか言い様がない。「まだまだ〜していない。」 などと落合節の調子もいよいよ高い。

*3:他にも例えば 「新しい役割の季節を迎えた」 (p.148) というように、「時期」 で済むところをわざわざ 「季節」 と比喩で書くのがこの訳者の趣味であるようだ。だが 「季節」 という比喩ならば 「廻り来ては過ぎ去って行く」 という意味を伴うのであり、このようなろくに意味を考えていない比喩表現の乱用はポイントを外した感傷的な表現でしかない。程度の低い安物の文学趣味。

 第30回 「家のフェンスを背にしたあの場所」とは一体どの場所なのか

 
落合恵子の訳文は以下の通り。
「あの場所」 というのは一体どこを指しているのか落合に聞いてみたいものだが、こんなものは書いた本人も説明できないに違いない。

女たちは、従来、女の居るべき場所とされた台所や子ども部屋や家のフェンスを背にしたあの場所だけではなく、年代を越えて、公の場で話し合い、討論し合っている。(p.151)


原文は以下の通りである。

Women are talking to each other, not simply in private in the kitchen, in the nursery or over the back fence as they have done through the ages, but in public groups. (p.129) 


まず、著者は 「女の居るべき場所とされた」 などということは全く書いていない。だがこのフェミニストの翻訳者はたとえそれが他人の著作であろうとも、女はこれまでずっと家庭に閉じ込められてきたのだと声を上げずにはいられないのだ。それが落合恵子の正義や誠実さというものなのだろう。
 
次に 「家のフェンスを背にしたあの場所」 というおかしな訳文は単に日本語文として見ても意味がさっぱりわからない。「あの場所」 という思わせぶりな言葉は一体何のことだろうか。私は落合女史と昵懇の間柄であるわけではないので、「家のフェンスを背にしたあの場所」 とか意味ありげなことを言われても残念ながら察してやることができない。「あの場所」 などという何かを仄めかすような曖昧な物言いでどこを考えていたのか、このページを落合女史に見せて聞いてみたいものだ。もちろん何も考えていなかったに決まっているが。

落合は 《over the back fence》 という英文を 「家のフェンスを背にした」 と実に大胆にまた自由気ままに解釈しているが、これは 「フェンス越し、垣根越し」 ということなのであって、つまり 「フェンスを間に挟んだお隣同士のお喋りや会話」 を意味しているのだ。
《over the back fence》 が理解できず上手く訳せなかったため、落合は 「あの場所」 という原文と対応していない冗語を付け足して誤魔化したのだろう。
 
更に 「年代を越えて」 という表現も原文には存在せず、「討論し合っている。」 は言葉の調子を強め過ぎている。おそらく落合は 《through the ages》 という表現を 「年代を越えて」 と都合良く解したのだろうが、それは全くの間違いである。
女性たちの意識や運動はこうあらねばならないという願望が強すぎるために落合の思考は歪んでしまい、その結果このようなデタラメな訳文が出来上がっているが、これは全くそんな意味ではない。ここは 《as they have done through the ages》 という区切りで読むのであり、「女性たちが長い年月の間ずっとそうしてきたように」 といった意味だ。繰り返し言うが、とにかくわからない英文があったら持ち前の 「しなやかな感性」で訳すことはせずに、まず辞書を引くようにしてもらいたい。翻訳を行う人間の最低限の努めだ。


女性たちは、幾世代もずっとそうしてきた台所や子供部屋や垣根越しでの会話だけにとどまらず、公の集まりにおいても対話を行っている。

このように訳せるだろう。