第1回 落合恵子が訳した『海からの贈りもの』はひどい翻訳

アン・モロウ・リンドバーグ *1の代表作である Gift from the Sea の邦訳は、吉田健一の翻訳で1956年に*2『海からの贈物』として新潮社から出版され、のち1994年に落合恵子による新訳が『海からの贈りもの』として立風書房から出版された。どちらも長い年月にわたって読まれている本だと言えるだろう。

だが落合恵子による『海からの贈りもの』は翻訳がひどい。これは落合の翻訳には誤訳が多いというようなことを言っているのではない。アン・モロウ・リンドバーグの原文に対して、落合恵子は言い訳のしようもない身勝手な歪曲や改変を意図的に繰り返し行っている。そのことに気づいたのは半年ほど前のことで、翻訳家の 山岡洋一氏の 「翻訳通信」 というサイトで、吉田健一訳の『海からの贈物』と落合恵子訳の『海からの贈りもの』の訳文を比較して論じている記事を読んだことに始まる。

とは言え、そこで落合の翻訳が強く批判されていたわけではない。山岡氏が引用した例文は冒頭のごく一部分に過ぎず、またその論旨は、吉田訳が文句なしの名訳であってこれに劣る落合訳も悪くはないがそれも下敷きにした吉田訳があってのこと、といったまず穏便なものであり、吉田訳がいかに名訳であるかを論じるために落合訳が引き合いに出されている形だった。*3 実際、そこに引用されている落合の訳文は特に大きな問題がある程のものではなかった。

私が読んでいたのは吉田訳の『海からの贈物』で、これに馴染んでいた。そしてちょうど 「翻訳通信」 の記事を目にする少し前に原著を購入したところであったので、これを機に原文と比較しながら二つの翻訳を読んでみようという気になり、落合恵子による『海からの贈りもの』も入手することにした。最初は、原著を読みつつ吉田訳と落合訳の文体的な違いを見てみようという程度の軽い考えだった。

ところが落合訳の『海からの贈りもの』を読み始めるとほんの数ページで強い違和感を覚える箇所が幾つか目にとまり、そこでそれらを原著に照らし合わせてみると、落合の訳文は原文と大きく違ったものであることがわかった。それ以降は読んでは付箋を次々とページに貼り付けていくような仕儀となった。そして原著と比較しながら一冊を全て読み通した結果、この落合の新訳には、単なる誤訳では済まされない落合恵子による意図的な歪曲や改変などが多いということが明らかになった。 

落合恵子による『海からの贈りもの』は端的にひどい翻訳である。吉田健一訳の『海からの贈物』と比較して見ると一段落ちる、相対的に劣る、どころの話ではない。それが翻訳者の無知や誤解から生じた単なる誤訳程度の問題だったら、わざわざこの様な形で取り上げて批判を加えることもなかった。だがこの落合の翻訳はそんなものではない。旧訳の『海からの贈物』を何度も読んだと自ら語っている落合は完全に承知の上で身勝手な訳文を作っているのであって、訳者が自分の主義主張を優先して著者アン・モロウ・リンドバーグの言葉を蔑ろにした翻訳、原著を歪めて汚した翻訳だと言わざるを得ない。
ブログやレビューなどでは、堅く難しい文体の吉田訳に対して女性らしい言葉で書かれた読みやすくわかりやすい落合訳、といった素朴な感想を見かけるが、これは翻訳の文体や訳者の感性の違いなどで語られるような問題なのではない。*4 もちろん英文解釈における考えの相違でもない。また軽々しく吉田訳と落合訳それぞれ味があってどちらの訳も良いなどと言うのも全く無責任な態度であると言わざるを得ない。一方の翻訳が正確であるのに対し、他方の翻訳は不正確であるのみならず不誠実であるのだ。

翻訳を行う者には著者とそして読者に対しての責任*5がある。原文解釈の幅を越え出た間違いであることが明白な翻訳に対しては、ちゃんと指摘が為され時に批判が加えられて然るべきである。
落合は翻訳の仕事も多い作家であるが、『海からの贈りもの』の翻訳からは著者の言葉を軽々しく扱う様が見て取れた。一事が万事と言う。*6 また今日では原著は簡単に手に入りこうした形で誰でも発表することが出来る。デタラメな翻訳がばれずに済んだ昔とは違う。このような好き勝手が見過ごされるばかりではないということをはっきり示しておこうと思う。
ならばいっそのこと落合が代表を務めるクレヨンハウスにでも宛てて直に問い質すべきなのかとも考えた。しかしこのような歪曲や改変を承知の上で平然と繰り返すような人間にそもそもまともな対応を期待することはできない。そうして今後改版でもあった際に、何食わぬ顔でこっそり訂正されているというのも一層業腹になる。何より、落合恵子の翻訳の問題というのは単なる過誤ではなく欺瞞なのであって、落合がそのような行いをしておきながら少しもやましさを感じることがない人間であるということは明らかになった方が良いと考える。こうして敢えて表沙汰にする次第である。


次の回より例文を挙げてそれらの問題点を具体的に指摘していく。
勢い批判が細かな点にまで及ぶこともあるが、それは落合の翻訳ぶりへの怒りの大きさの故であるとご理解いただきたい。
 
 
*以降の記事は下方向にあります。(従って内容の順序は日付と逆行しています。)

*翻訳のひどさに応じてカテゴリー分けをしてあります。

*引用文の太字強調部分はブログ筆者によるものです。

青文字の訳文はブログ筆者によるものです。
落合恵子訳 『海からの贈りもの』 は1996年版のものです。

吉田健一訳 『海からの贈物』 は平成17年版のものです。

*英語原文は2005年版 Pantheon Books のものです。
 
 
 
追記
先頃、山岡洋一氏が逝去されたことを知りました。
山岡氏の翻訳論に触発されることがなければ、落合恵子による『海からの贈りもの』を検めることもなかったでしょうし、その翻訳の問題をこうして明らかにすることもなかったでしょう。そして何よりアン・モロウ・リンドバーグの英文をここまで意識的に読むこともなかったでしょう。深く感謝致します。
山岡洋一様、ありがとうございました。
2011年 10月6日
 
 
 

*1:アン・モロウ・リンドバーグ Anne Morrow Lindbergh1906年-2001年 )はアメリカの女性作家であり、また女性飛行家の先駆けの一人としても知られている。大西洋単独無着陸飛行の偉業を成し遂げて一躍その名を世界に知らしめたチャールズ・オーガスタス・リンドバーグと結婚、自らも飛行機操縦に関する知識と技術を学んで彼の飛行に同行するようになる。その体験をもとに最初の作品である North to the Orient を1935年に発表した。1955年に発表された内省的エッセイ Gift from the Sea は彼女の代表作として長く読み続けられている。

*2:文庫本として出版されたのが1967年で、もとの単行本は原著出版の一年後である1956年に出されている。

*3:おそらく山岡氏は落合訳の『海からの贈りもの』の一部に目を通しただけなのだろう。全てを読むまでもなく優劣は明らかだと判断されたのに違いない。山岡氏の記事の表題は 『本物と偽物』 である。

*4:落合の翻訳を 「わかりやすい、読みやすい」 と言って喜んでいる手合いは理解できないが、落合の『海から贈りもの』は原著を満足に読まずに吉田訳を自分の理解力のレベルでリライトして出来たと思われる代物で、彼らの 「わかりやすい、読みやすい」 という評価はそのような意味においては確かに首肯できる。

*5:はっきり言ってしまえば、落合の行為は著者と読者に対する裏切りである。

*6:言うまでもなく、私は落合の他の翻訳も怪しいものだと疑っている。長年の愛読書だ、これほどまでに好きな本だ、などと思い入れを熱心に語ってみせる本に対してすらこれだけ身勝手な行いができる人間であるのだ。それで他に落合の翻訳の評判は何かないものかと探していると、コラムニストの小田嶋隆氏が落合の手がけた洋楽の訳詞についてブログで言及されているのを見つけた。 「自分勝手な意訳」、 「腐った訳詞」「殺人的にひどい翻訳」 だと酷評されている。おそらくその通りだろう。

 第2回 到底ありえない 「柔軟性」 という訳語

落合恵子の『海からの贈りもの』は最初からこんなデタラメな訳文が出てくる。
この作品で重要な意味を持つ言葉を、落合は全く違う意味の言葉に書き変えてしまっている。

砂を掘り返して宝を探すというやりかたは、せっかちであり、欲張りであり、さらには自然への配慮のない行為である。
海は、柔軟性こそすべてであることを教えてくれる。柔軟性と、そして率直さ。(p.13)


それに対し、吉田健一による訳文は原文に従った適切な翻訳になっている。
吉田訳に親しんでいたという落合も、当然これを参照しているはずなのだが。

地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。 (p.15)


そして原文は以下の通りである。

To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. (p.11)


まず落合が 「柔軟性」 と訳した原文は 《patience》 であり、意味は 「忍耐・辛抱強さ」 である。
また 「率直さ」 と訳された原文は 《faith》 で、意味は 「信念・信仰」 である。
さらに 「自然への配慮のない行為」 などと訳されている 《lack of faith》 は 「信念・信仰の欠如」 といった意味である。
どれも全くありえない訳語であり、できることならこんなデタラメなものに翻訳とか訳語とかいった言葉を使いたくもない。

なかでも原文で著者が3回も重ねて強調している 重要な 《patience》 という言葉に対して、全く意味の違う 「柔軟性」 などという訳語を当てるなど、落合は一体どういうつもりなのか。*1 原文はごく簡単な英文であり、また落合も何度も読んだという吉田健一の訳文もある。もちろん間違いでこんな訳文ができるわけがない。原文と全く意味が違うことは当然知っていて落合はこのようなデタラメな訳語を当てているのだ。 「柔軟性」 だの 「率直さ」 だのと言うのは落合自身の価値観でしかない。著者の言葉を蔑ろにし、訳者が自分の価値観を優先させて訳文に紛れ込ませているのであり、認めがたい愚行であると言わざるを得ない。
それに著者の原文は 「柔軟性こそすべてある」 などという脈絡もない極論を出し抜けに言い出すようなおかしな文章ではないし ( なぜ 「柔軟性がすべて」 だという帰結に突然なるのか)、 「柔軟性こそすべて」 と断言したばかりなのにその直後に 「そして率直さ」 などと追加をするような間抜けな文章でもない。

そのうえ落合は 《faith》 という単語に対してはこれまた 「率直さ」 というデタラメな訳をしておいて、しかもそれを含む 《lack of faith》 という表現に対しては 「自然への配慮のない行為」 などという更にデタラメなとんでもない訳を当てている。 《lack of faith》 というのは 「《faith》 の欠如」 という意味であるのに。「率直さ」 とやらはどこに消えたのだ。「自然への配慮」 などという言葉は一体どこから出てきたのだ。こんな愚劣なものは誤訳ですらない。

長年の愛読書とまで呼ぶ著作に対して、なぜ落合はこんな愚かで無礼な行為ができるのか全く理解し得ないことだが、こんなことは大した問題ではないと考えているということだけはわかる。*2 「自然への配慮のない行為」 だの何やら立派そうなことを言っているが、落合恵子に著者アン・モロウ・リンドバーグの言葉への配慮というものは無いようだ。


《patience》 に 「柔軟性」 という訳語はどう考えても無い。
 
 
 

海からの贈りもの - Gift from The Sea【講談社英語文庫】

海からの贈りもの - Gift from The Sea【講談社英語文庫】

講談社英語文庫版。安価で買いやすく、また巻末の注釈もあって便利な本だが、その注釈に幾つか誤りがあるのが難点。現在は品切れの様子。
 
 
 

*1:《patience》 は著者が結びにおいても記している言葉であり、この著作の重要な言葉の一つである。気まぐれに記された言葉などではない。もちろん落合が好き勝手に書き変えて良いような表現ではない。

*2:落合は訳者あとがき (p158) で次のように語っている。「これほど好きな『海からの贈りもの』を、あらためて翻訳すること……。それは二十数年来の読者であるわたしにとって、」

 第3回 落合恵子が 「忍耐」 という訳語を書けない理由

《patience》 は普通、 「忍耐」 あるいは 「辛抱強さ」 と訳される。
なぜ落合恵子《patience》 という言葉に対して 「柔軟性」 などという全く意味の違う訳語を用いたのか、それはわからない。しかし落合が「忍耐」 という訳語を書かなかった理由の方は容易に察しがつく。*1

やはりこの本、Gift from the Sea の読者の大部分は女性である。もちろん落合の読者については言うまでもない。おそらく落合は 「女性に忍耐を説くこと」 を忌避したのだ。もっとあからさまに言うなら 「女が耐える」、「女が我慢する」 というのが落合にはそれこそ我慢ならなかったのだろう。
なるほど、もし 「海は忍耐こそすべてであることを教えてくれる。」 などと訳してしまったら、女性たちに向けたメッセージとしてフェミニスト落合恵子には到底許すことができない表現になってしまう。*2 フェミニズムを看板に掲げる作家が女性たちにまさか忍耐の重要性などを説くわけにはいかない。フェミニストの沽券に関わる。かくして落合は著者の言葉を否定したのだろう。
 
では落合が否定したこの 《patience》 はどのように読むべきだろうか。
だが何も難しいことはない。原文をちゃんと読んでいるなら、すぐ近くに明確な手掛かりがあるということに気がつくことができる。著者は 《patience》 をその直前にある 《impatience》 に対置しているのであり、言葉の意味は当然そこから考えなければならない。*3 そしてこの 《impatience》 とは 「せっかち」 という意味であり、 《patience》 はその 「せっかち」 を戒める言葉として記されているのである。


The sea does not reward those who are too anxious, too greedy, too impatient. To dig for treasures shows not only impatience and greed, but lack of faith. Patience, patience, patience, is what the sea teaches. Patience and faith. (p.11)


この原文を吉田健一は次のように訳している。

海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。 (p.15)


「忍耐」 といっても、辛いこと嫌なこと理不尽なことに耐え忍ぶという意味合いではなく、自分で砂浜を掘り返して貝殻を手に入れたいと思うはやる気持ちに対して、そこを我慢しなさい、こらえなさいと言っているに過ぎない。
「貝殻を求めて砂を掘り返したいところを我慢しなさい」 ということが直接の意味であり、さらにこれを抽象的に求めれば、 「はやる気持ちを抑える」、 「自分から手を出したいところをこらえる」 という意味合いでの 「忍耐」 であると見当がつく。*4
ここでの 「忍耐」 とは、 「自分から動きたい気持ち」、 「はやる気持ち」 に対して 「そこを我慢しなさい」 と言っていると見て良い。
要するに 「待ちなさい」 ということだ。

ここで著者は、女性たちよ辛いことがあっても耐えなさい、何より辛抱が大事です、と説いているわけではないのだ。もちろんデタラメな落合の 「柔軟性」 など出る幕も無い。
 
それでいささか解りにくい 《lack of faith》 という箇所も理解することができるだろう。吉田健一訳では 「信仰がないこと」 と訳されており、かつて読んでいてなぜ話が急に 「信仰」 のことに及ぶのか理解できなかった。もちろん 「信仰」 という訳は至ってもっともなものなのだが、今になってみるとこの訳語もあまり適当とは言えないように思われる。何か無宗教であることを難じているようにも読めてしまうが、おそらくこれはキリスト教だとかの具体的な宗教の信仰の有無のことではなく、自分から砂浜を掘り返して貝殻を漁るような行為は 「到来をじっと待つことができない」 ことであり、それは 「信じることができない」 ことであるという様に解釈できるだろう。


そして、この 《patience》 の意味を確かめながら原文を読んで初めて理解できたことであるが、そもそもこの The Beach の章全体が 「待つ」 という述語を基調として綴られていると言って良い。
まだ読んでいない本、返事を出しそびれたままの手紙、作家としての仕事、そんなあれこれを抱えて勇んで浜辺にやってきたものの、すぐに浜辺のゆるやかな時間と空気の中に当初のはやる気持ちは溶けてしまう。考えることすらせず何もしないでそのまま過ごし、そうして二週間目の或る朝、ようやく意識に目覚めが訪れる、というように著者は書いている。
ここでは能動的な行為や確固とした意思というような主体的なものは遠ざけられていて、そのことは 《drift》 「漂う」、 《unconscious rollers》 「無意識の波」、 《chance treasures》 「偶然手にした宝物」、 《choiceless》 「選んだりしない」、というような共通性のある言葉が幾つも用いられているということからも窺える。  
 
そうしてこの章は 《―waiting for a gift from the sea.》 の一行で閉じられる。
 
 
 

Gift from the Sea

Gift from the Sea

次女のリーヴ・リンドバーグが序文を寄せている50周年版。落合訳の『海からの贈りもの』もこのPantheon Books版を底本としている。
安価なペーパーバックだが紙質や印字が良く、またグラデーションのかかった薄いブルーに銀色の箔押し文字というシンプルな表紙も美しい。
 
 
 

*1:「そう、ほんとうの忍耐強さとは、柔軟性によってこそ可能になるのだから……。」 などと落合は悪びれもせずに言い出すかもしれない。

*2:もっとも著者は 「〜こそすべてである」 などという単純な断言はしてはいない。こういった安易で単純な断言は落合の思考のパターンであろうか。原文を直訳するなら 「忍耐が海の教えてくれることである。」 といった辺りで、そこを吉田健一は 「忍耐が第一であることを海は我々に教える。」 という日本語にしている。ところが落合は吉田訳と原文との対応を確かめないまま、 「第一である」 という表現を 「こそすべて」 などと無闇に強めていて、その結果、落合のデタラメな訳文は原文からますます遠ざかっている。

*3:単語の綴りが示すように、 《impatience》 という言葉は 《patience》 が基になっていて、 「 《patience》 を欠いていること」 という形である。今回私は原文に当たって、吉田訳の 「せっかち」 と 「忍耐」 という訳語の間には実は明確で密接な対応があったことを知ることができて驚きと喜びを少なからず覚えた。実際に原著に触れてみればこういう発見の驚きと喜びがあり、そしてそれを大事なものだと考える。落合が自分で原著をちゃんと読んだというのはかなり疑わしいことだと私は思っている。

*4:軽薄と言うべきか愚かと言うべきか、著者アン・モロウ・リンドバーグが繰り返し説いている 《patience》 という言葉を無視して訳者である落合恵子が自分の言葉を優先させたのであり、著者の言葉が何を言おうとしているのか辛抱強く聴き取ろうとせずに自ら語り出してしまった落合は、正にその 《patience》 が欠落している。アン・モロウ・リンドバーグの表現にならえば、落合は自分で好き勝手に砂浜を掘り返しては貝殻を漁る者に他ならず、落合恵子はこの著作 Gift from the Sea を翻訳する資格のない、いや翻訳してはいけない人間だということになるだろう。落合のもとに 「海からの贈りもの」 が届くことは決してない。

 第4回 落合恵子はちゃんと自分で原文を読んで翻訳したのかと疑う

落合恵子の訳文には、本当に自分で一つ一つ原文を読んだ上で訳したのかと疑わせる不自然な点が多く見られる。
以下は落合の訳。

そうして二週間目のある朝。漂うだけだったわたしの心が目覚め、働きはじめる。都会のそれとは違う、あくまでも、海辺での覚醒、海がもたらす智恵とでも言ったらいいだろうか。目覚めた心は、海辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、巻き上げられたりしはじめる。(p.12)


原文は以下の通りである。

And then, some morning in the second week, the mind wakes, comes to life again. Not in a city sense―no―but beach-wise. It begins to drift, to play, to turn over in gentle careless rolls like those lazy waves on the beach. (p.10)


どうも落合の精神は簡潔に書くということに耐えられないらしい。
著者は 「漂うだけだった」 などという余計な言葉を書いてはいない。この勝手な書き加えは単に無駄であるばかりでない。落合は文章の脈絡を考えもぜず軽々しく単に雰囲気だけで言葉を並べていて、その結果、文章は前後で辻褄が合わなくなってしまっている。*1 漂うだけだった心が目覚め、そして目覚めた心はまた漂いはじめる、などという落合の訳文は余りにずさんなものだ。アン・モロウ・リンドバーグがこんな締まりのない雑な駄文を書くものだろうかと問うのも空しい。落合の文章は情緒や気分に安易に流され、意味的に破綻してしまっている。


比較に吉田健一訳を上げる。

そして二週間目の或る朝、頭が漸く目覚めて、また働き始める。都会でも同じ形ではないが、浜辺の生活なりにである。それは浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。 (p.14)


吉田健一の 「浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上がったりし始める。」 という表現は原文直訳ではない意訳であって平均的な訳文ではない。だが落合の 「浜辺に砕ける波とともに漂ったり、戯れたり、静かに巻き上げられたりし始める。」 という訳文は吉田訳の表現とほとんど同一で、そのまま丸写しにしているとすら言える。*2 そして言い回しに自分らしさを出そうとして、無駄な言葉を書き加えてわざわざ駄目にしているのだ。
この英文を自分で一つ一つ日本語に置き換えていった結果、偶然にも吉田訳そっくりの落合のあの訳文が出来上がったということはおよそ考えにくい。吉田健一の訳文を丸写しにしてそれに無用な手を加えた結果このような辻褄の合わない無様な文章になってしまったと考える方が自然だろう。



また次の箇所、一見正しいようだが、これも誤りである。

結局いつも、本は一行も進まず、鉛筆の芯は折れ、雲ひとつない空と同じ状態の何も書かれないままの紙を持ち帰ってくるのだが。
 海辺でわたしは、本を読みもしなければ、何も書かない。ものを考えることさえしない。少なくとも、海に来たはじめのうちはそうだ。
(p.11)


原文は以下の通り。

The books remain unread, the pencils break their points and the pad rest smooth and unblemished as cloudless sky. No reading, no writing, no thoughts even -at least, not at first. (p.9,10)


結局本も読まず何も書くこともせずいつも海辺から帰ってくるかのように落合は訳しているが、そのような表現は原文には無い。これはあくまで海辺に来て 「はじめのうち」 の話である。これ以降の章を読んでも明らかだが、著者は海辺の滞在中に本を読んだり文章を書いたりしている。
だいたい落合自身も 「少なくとも、海に来たはじめのうちはそうだ。」 と記しているのに、これではまたも前後の辻褄が合わない。
こういう箇所を目にするたびに、落合は本当に原著を読んだのだろうかという疑いを抱く。


吉田健一訳は以下の通りである。

そして本は読まれず、鉛筆は折れて、紙は雲一つない空と同じ状態のままになっている。読みもしなければ、書きもせず、ものを考えさえもしない。 ― 或いは少なくとも、初めのうちは、である。 (p.13)

 
 
 

*1:文章が乱脈であるのは思考が乱脈であるからだ。

*2:例えば、《lazy waves を逐語的に訳していけば 「気だるそうな波」 といった辺りがまず大方で、 「砕ける波」 という訳は誰でも同じように思いつくようなものではない。

 第5回 一休み   「にし貝」 ‐ 《Channeled Whelk》

旧版の新潮文庫の『海からの贈物』は表紙のデザインが全く抽象的なものであったし、また文章からも、著者を思索へと導いた貝が実際どのような姿であったのか、その具体的なイメージを得るまでには至らなかった。新版の表紙は写実的な貝のイラストが描かれたものへと代り、また落合訳の『海からの贈りもの』にも簡単な貝のスケッチ画が載っているのだが、どちらも特に説明があるわけでもなく、それらが作品に出てくる貝なのかどうか知ることはできない。
しかし昔から考えれば信じられないほど画像を探すことが容易である現在、座したままに文中の貝の姿を探ることができる。以降、そうして見つけたそれらの貝の写真も時々に紹介していく。
掲載していく貝の写真は文中と同じ名前同じ種類のものであるとはいえ、生息場所とか個体の成長度合いとか更に細かい分類とかで違いがあることも考えられるので、これらの写真が著者アン・モロウ・リンドバーグがかつて手にし目にした貝の姿にどれほど近いものであるかわからないが、作品により近づくための一助にはなるだろう。  
 
 

Channeled Whelk *1  
 
《Channeled Whelk》吉田健一訳では 「ほら貝」、落合恵子訳では 「にし貝」 となっている。
だが日本語で言う 「ほら貝」 は著者の描写と大きく異なるものであるし、また 「にし貝」 を調べてみても簡素な美しさというのとはだいぶ違った様子の物が出てくる。*2
 
《Whelk》 というのはこの類の貝の総称であり、 《Channeled》 というのは、 《channel》 が掘られた、 「水路が掘られた」 という意味のようだ。*3 この写真では上面の様子がややわかりにくいのだが、渦の巻きに沿って溝が深く刻まれているような形状になっている。しかし意外なことに、著者はこの貝の一番の特徴とも言える深い溝のある形状については全く触れていない。
渦巻きはバイオリンの頭部のようでもあり、またギリシャ神殿の柱頭の装飾のようにも見える。言い換えるなら渦巻きの辺りは人工の構造物を思わせると言ってもよい形状を成していて、著者はそこに螺旋階段を見た。
 
原文では貝の姿がこのように描写されている。

Its shape, swelling like a pear in the center, winds in a gentle spiral to the pointed apex. Its color, dull gold, is whitened by a wash of salt from the sea. Each whorl, each faint knob, each criss-cross vein in its egg-shell texture, is as clearly defined as on the day of creation. (p.16)


洋梨のように中央が膨らんで渦が先端に向かって緩やかに巻き上がり、突起はごく小さく、卵の殻のような表面には筋が縦横に走っているというように描写された貝の実際の姿は、このようなものだったかと理解することができる。
 
 
 

*1:写真はSeashellGuide.com http://www.mitchellspublications.com/guides/shells/articles/0026/より。色々な貝殻の美しい写真を多数見ることができて楽しい。こちらの Patricia B. Mitchell という方はアメリカの伝統的食文化の研究家と説明するのが適当だろうか。

*2:「ほら貝」 に相当する英語であれば Triton だろう。

*3:他にもPear WhelkLightning WhelkKnobbed Whelk といった仲間が見られる。

 第6回 女の家事労働はこんなに大変だと何度も勝手に書き加える

ここの訳文は落合の主義主張のための加筆が目に余る。
赤色の部分は全て落合恵子が勝手に書き加えたもので、「女の仕事はこんなにも多い」 と10回も加筆されている。あらかじめ注意しておくが原文の主旨は落合の訳文とは大きく異なっており、落合のこの加筆は原文の主旨を強調する類のものではない。

わたしが選択した妻であり母であるということは、およそさまざまな雑事で構成されている。
 郊外にある一軒の家。その家を維持していくために、わたしたち女が使う労力。わずかでも誰かの手助けがあればいいほうで、ほとんどの場合、それさえも望めない。ということは、女は家事に追われて、自分のことは何もできないということである。*1
 食べもの、住居、料理、買いもの、請求書の整理、さまざまな予定等々。それらのすべてが、女の領域とされている。
( 中略 )それに家族の健康の問題もある。医者や歯医者の予約。診察の時間の確認。各種の薬や肝油やビタミン、そして薬局までのひとっ走りもまた、女の仕事だ。
 精神的、知的、肉体的な意味における教育に関しても、女たちの仕事は尽きない。学校、学校関係の集まり。そのための駐車場さがし。バスケットボールの試合も見なければならないし、オーケストラの練習にもつきあわなければならない。家庭教師とのあれこれや、キャンプの用意もある。さらにキャンプ場に必要な道具を揃え、それを運んでいくのも、女の仕事である。
 それから、衣類のこと。買いもの、クリーニングに出すにしても洗濯するにしても、女の仕事はここにもこんなにある。繕い、スカートの丈を長くしたりつめたり、ボタンをつけたり等々。女の仕事に、これで終りというゴールはない。自分の代わりにそれをやってくれる人を探さなければならない場合でも、探すのもまた女の仕事である。
 夫や子どもたち、そして自分の友人関係の中で、手紙や招待状を書いたり、電話をしたり、送り迎えに絶えず気を配っていなければならないのも、わたしたち女である(p.21,22,23)

 
同じ箇所を吉田健一はこのように訳している。
「女の仕事は云々」 というようなことは一言もない。

私が選んだ妻、及び母としての生活は凡そいろいろな面倒なことで満たされている。それは郊外にある一軒の家と、次には、我々多くのものにとっては全然ないか、或いは殆どないのに近い手伝いの問題、でなければ、家事に追われて何もできないということを含んでいる。それは食べものや住居の問題、料理や、家計簿や、買いものや、請求書や、なんとかして収支を合わせることを含んでいる。 ( 中略 ) また家族の健康ということもあって、医者や、歯医者や、診察の時間や、薬や、肝油や、ビタミンや、薬屋まで出掛けて行くことがその中に入る。また精神的な、或いは知的な、或いはまた肉体的な教育の面では学校や、学校での集会や、自動車の駐車場や、バスケット・ボール、或いは管弦楽団の練習や、個人教授や、キャンプや、キャンプ生活に必要な道具や、輸送の問題がある。それから衣類のこと、またそのための買いもの、洗濯屋、洗濯、繕い、スカートを長くしたり、ボタンを付けたり、或いは自分の代わりにそれをやってくれる人を見付けるということもある。それから私の夫にも、子供たちにも、また私自身にも友達があって、友達が集まるのには手紙や、招待状や、電話、送り迎えのことで絶えず頭を使っていなければならない。 (p.23,24)

 
全てを引用するまでもないので一部に止めるが、著者の原文は以下の通りである。

The life I have chosen as wife and mother entrains a whole caravan of complications. It involves a house in the suburbs and either household drudgery or household help which wavers between scarcity and non-existence for most of us. It involves food and shelter; meals, planning, marketing, bills, and making the ends meet in a thousand ways. (p.19)


落合は、「わたしたち女の仕事はこんなにも多いのだ」 という意味の文章を幾つも加筆して 「現代の女たちはいかに多くの仕事をこなさなければならないか」 という主旨へと変えてしまっているのだが、この章で問題にされているのは現代の人間の生活がいかに煩雑なものであるかということ、現代の私たちの生活は望ましい簡素なものではなく諸々の雑多なことがらで埋め尽くされているということであって、なぜ女の仕事はこんなにも多いのかということが問題にされているのではない。著者は、私たちの生活を快適便利にしてくれる近代的な道具や、友人近隣との交際なども時に煩雑さをもたらす、と述べているのである。


「わたしたち女が使う労力。」
「女は家事に追われて、自分のことは何もできないということである。」
「それらのすべてが、女の領域とされている。」
「また、女の仕事だ。」
「女たちの仕事は尽きない。」
「それを運んでいくのも、女の仕事である。」
「女の仕事はここにもこんなにある。」
「女の仕事に、これで終わりというゴールはない。」
「探すのもまた女の仕事である。」
「絶えず気を配っていなければならないのも、わたしたち女である。」
 
あきれたことに落合はこのわずか2ページ程の間に 「わたしたち女の仕事はこんなにも多い」 と10回も書き加えているが、こういったうるさいアピールを著者は一切していない。


また原文が 《The life I have chosen》 と始まっていること、そしてまた落合恵子の訳文も 「わたしが選択した」 と始まっていることに留意してほしい。先に述べたようにこの章では、簡素な生活が大切であるということ、しかし現代の社会ではそれが容易でないということが語られている。そしてアン・モロウ・リンドバーグは自分自身の生活を省みて、それが簡素とは程遠い煩雑なものであることを具体的に例を幾つも挙げて詳述している。上に引用した文章はその一部分である。この箇所はあくまで、著者自身が 「いまの私の生活はなんと煩雑なものであるか」 ということを語っている文章なのである。
ところが落合は、 「わたしが」 で始めた話をすぐにすり替えて、 「わたしたち女」 の問題に拡げてしまうのだ。 「郊外にある一軒の家」 という具体的な記述はもちろん著者個人の事情を示しているのに、次の 「その家」 から突然 「わたしたち女」 という一般的な話題に変えられてしまっているのだ。誰もがみな郊外に一軒家を持っているわけもないのに。  
「郊外にある一軒の家」 というのは、コネティカットにある著者の自宅を指しているのだし、この後の原文でも 《my modern house》、《my husband's, my children's》 と記されていて、著者が自らの生活を振り返って述べていることははっきりしている。


吉田健一はアン・モロウ・リンドバーグのこの著作について、「一人の女が自分自身を相手に続けた人生に関する対話」 と評しているが、しかしこの落合の翻訳は 「わたしたち女は〜」 という落合自身の演説になってしまっている。そしてそういうことがこの箇所に限ったことではない。*2 *3
一人よがりの程度の低い読書体験にすぎないにせよ、とにかく落合が『海からの贈物』に感動したということはさすがに嘘ではないのだろう。だがその翻訳ぶりを見る限り、自分が感動を受けた作品を正しく伝えるということに関して落合恵子はほとんど関心が無いのだと言わざるを得ない。自分に感動を与えた作品に対しての畏敬や謙虚さというものが落合の翻訳には少しも見られないのだ。  
 
 
 

*1:この箇所は吉田健一にも落度がある。吉田訳でも 「家事に追われて何もできない」 と言う表現があるが、これに相当する原文は見出すことができない。著者はそこまで言ってはいない。しかし落合恵子はそれを改めることもなくそれどころか更にそこを強調して訳している。ということは、落合は誤訳をそのまま引き写してしまっているということであって、本当に落合が自ら原文を読んでそれから自力で訳文を作っていったのだとしたらそうなるわけはない。こういう次第から私は、落合恵子は原文を読んで自分で訳した後に吉田訳を参照したのではなく、吉田訳か或いは誰か他の下訳を自分の都合に良いように書き変えたのちに、参考程度に原文に目を通しただけなのではないかと考える。

*2:新潮文庫 『海からの贈物』 (p.130)

*3:私は翻訳を通して著者の言葉を聞きたいのであって、訳者の偏った主張が聞きたいわけではない。

 第7回 一休み   「やどかり」 が意味するもの

にし貝の章の冒頭で、 「やどかり」 がこの貝殻を住処にしていたということが語られている。Gift from the Sea では、貝殻が著者の思索の端緒となっているのだが、その姿形ばかりでなく、 Moon Shell《Argonauta》 のように貝の呼び名もまた著者に大きなインスピレーションを与えている。

「やどかり 」 は英語で Hermit Crabであり、そして《Hermit》 は 「隠者」 を意味する。このにし貝の章の原題は Channeled Whelk であり、この貝の名前は特に著者に与えるものが無かったようなのだが、その代り 《Hermit Crab》 がそれを住処にしていたということが大きく影響したのだと考えられる。
この章で語られているのは簡素な生活の大切さということである。 《Channeled Whelk》 の余分なもののない美しい形、そして 《Hermit Crab》 、そこから著者は 「簡素な住まいに暮らす隠者」 というイメージを得たのに違いない。 


著者は簡素な生活について語るのに 《saint》 「聖者」 とか、《wise men》 「賢人」 とか、《monk》 「修道士 」とか 、《nun》 「修道女」 といった類の宗教的な言葉を数多く用いている。そして 「やどかり」 もそのような言葉の一つだった。
  
  

《Hermit Crab, inhabiting a whelk shell.》 *1
 
 
 

*1:写真はSeashellGuide.com http://www.mitchellspublications.com/guides/shells/articles/0083/より。《Whelk》 の一種の貝殻から小さなやどかりの脚が覗いて見える。

 第8回 翻訳者が自分の価値観を紛れ込ませる

落合恵子の翻訳の問題というのは、翻訳の出来不出来の問題である以前に、落合恵子の心構えの問題だと言わざるを得ない。この箇所の翻訳は、落合には始めから否定しなければならない物事があって、それを否定しようとする衝動を他人の著作の中においても自制することができなかったということだろう。


落合恵子の訳文はこのようになっている。

そして、こんなにも問題を持ったアメリカ人の生活が、現代、世界の人びとの一つの理想になっているのだ。(p.24)


だが原文は以下の通りである。

since life in America today is held up as the ideal of a large part of the rest of the world. (p.21)


「こんなにも問題を持った」 などという極端に否定的な表現はこの原文のどこにも無い。またこれ以外の箇所においても著者はアメリカがそんなに問題だらけであるかのように書いてはいない。ここで著者が論じているのは1950年代のアメリカであるが、落合は現代のアメリカについての落合自身の批判的な考えを押し込んでいるのだ。


対して、吉田健一による翻訳はこのように適切なものだ。

それはアメリカ人の生活が今日では世界の他の国々に住む多くの人たちによって一つの理想にされているからである。 (p.26)


もう一つ落合が歪曲した訳文を挙げる。誰によって女たちは 「馴らされている」 と落合は言うのだろうか。聞くまでもない事であるが。

わたしたちは、すべての人を受け入れるように馴らされている。夫を、子どもたちを、友だちを、近隣の人たちを。(p.25)


「馴らされている」 という訳文には、 「本来そうでない筈なのに、あの者たちによってずっとそうさせられてきたのだ」 という落合の思惑が見て取れる。以下の通り原文にはそんな意味は無い。

We must be open to all points of the compass; husband, children, friends, home, community; (p.22)


「こんなにも問題を持った」 にしても 「馴らされている。」 にしても、どうして落合は原文に存在しない余計な表現を付け加えずにいられないのか。
 
 

Gift from the Sea: 50th Anniversary Edition

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こちらは50周年版原著を朗読したCD。
 
 
 

 第9回 「社会的に目覚しい活動をした女たち」 というとんでもない嘘

ここの落合恵子の翻訳ぶりは本当にあきれかえる代物で、落合のフェミニズムとはどういう類のものか、そのためとあれば落合はどういうことを仕出かすのか、そういったことを示している。
 
落合の訳文は以下の通りである。

なぜ、社会的に目覚しい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったかということである。禁欲とか子どものことに関係があるのではないかとかつて考えたことがあったが、そうではなく、まず「気が散ること」を避けるためだったのではないだろうか。 (p.26)


だが原文は以下の通りで、 「社会的に目覚しい活動をした女たち 」 などという表現は原文には全くない。原著のどこを探してもそんなものは出てこない。*1

I begin to understand why the saints were rarely married women. I am convinced it has nothing inherently to do, as I once supposed, with chastity or children. It has to do primarily with distractions. (p.22,23)


吉田健一はこれを以下のように訳している。

なぜ、女で聖者だった人たちが稀にしか結婚しなかったかを理解する。それは私が初め考えていたように、禁欲とか、子供とかいうこととは、本質的には関係がなくて、何よりもこの気が散るということを避けるためだった。 (p.27)


原文の赤色の部分を訳せば、 「なぜ聖者たちに結婚した女性が稀であったか」 となる。
《saint》 の意味は 「聖者」、「聖人」 である。落合の訳文は正反対と言っていいほど全く違っている。 「女の聖者たち」 、「女の聖人たち」 と当然訳すべき箇所を 「社会的に目覚しい活動をした女たち」 と書き変えるなど、著者を侮り原文を蔑ろにした全く愚かな行為であり、到底理解することができない。*2
著者アン・モロウ・リンドバーグはこの文章の前後でも、 《saint》《saintly life》 と同様の表現を繰り返しており、原著のどこを読もうがそのような訳語は全く出て来ない。落合恵子が自分のフェミニズムの立場に都合が良いように自分勝手な訳文を捏造しているだけだ。そしてこのような捏造をしたばかりに、次の 「禁欲」という言葉は場違いに浮いて文章がちぐはぐになってしまっている。社会的に目覚しい活動をするような女たちは禁欲を心掛けるものだと考えていた、とでも落合は言うのだろうか。*3
原文はごく簡単な単語ばかりであって、間違いでこんな訳文ができるわけはないのだ。このような愚劣な文章を 「女性的」 だの 「読みやすい」 だのといって賞賛することは決してできない。   
  
 

海からの贈りもの

海からの贈りもの

この新訳でより多くの人に読まれるようになったことは間違いないが、デタラメな落合の訳文によってアン・モロウ・リンドバーグという作家が判断されてしまうのはむしろ不幸なことだ。
意外なことに、各章の扉などにスケッチ風のイラストを描いているのは著名なアニメーション映画監督である、りんたろう氏。
 
 
 

*1:「もし、いまの時代にアンが 『海からの贈りもの』 を書いたとしたら……あの時代においてはそれがやむを得ないことだったとしても……「女の聖者」 とは書いたりしないのではないか。そう、わたしは考える。」 落合の言い逃れを考えるならこんなところか。

*2:しかしある意味ではこれほど解りやすく見え透いた愚行もない。フェミニズムを看板にする女性作家が他人の著作の中に 「なぜ、社会的にめざましい活動をした女たちが、まれにしか結婚をしていなかったか」 と勝手に書き入れるという、まるで戯画のような滑稽な行為に驚かされる。この翻訳を読むまで落合について詳しく知るところはなかったので特に先入観を持つこともなく読んだのだが、このような愚かな行為を平気でする人間であったことを知って非常にあきれ、そして強い怒りを覚えた。

*3:吉田健一訳でも 「禁欲」 と訳されているが、原文の 《chastity》 という単語はむしろ 「純潔」 と訳す方が適当だと思われる。そしてそのように訳すと落合訳は一層おかしなものになる。

 第10回 一休み  「つめた貝」 ‐ 《Moon Shell》


《Moon Shell》 *1
  
   
《Moon Shell》、「つめた貝」。
 
吉田健一訳の『海からの贈物』ではその姿はこのように描かれている。 

乳白色をしていて、それが雨が降りそうな夏の晩の空と同じ薄い桃色を帯びている。そしてその滑らかな表面に刻み付けられた線は貝殻のやっと見えるぐらいの中心、眼ならば瞳孔に相当する黒い、小さな頂点に向かって完全な螺旋を描いている。(p.37)


この章で描かれているイメージが幾つかある。
海に浮かぶ島と空に浮かぶ月。それから水を湛えた泉と満たされた杯。
月と島は自分一人でいることを、そして泉と杯は自らが満たされていることを象徴している。
 
 
 

*1:写真はSeashellGuide.com http://www.mitchellspublications.com/guides/shells/articles/0042/より。 《Moon Shell》 の一種である、 Shark's Eye あるいは Atlantic Moon Snail とも呼ばれる貝のようだ。

 第11回 《haven》 を 「天国」 と誤解する

落合恵子の訳文はこうなっている。

わたしたちを気分転換や空しい情事に駆り立てたり、病院や医師の診察室といった一瞬の天国に追い込む一因となっている。 (p.55)


原文は以下の通りである。

pushing us into more and more distractions, illusory love affairs or the haven of hospitals and doctor's office. (p.48)


まずきわめて初歩的な間違いから指摘する。「天国」は 《heaven》 だ。《haven》 ではない。
落合は 《haven》 「避難所、嵐を逃れるための港」 と 《heaven》 「天国」 を取り違えている。
だが 「一瞬の天国に逃げ込む」 ならまだしも、「一瞬の天国に追い込む」 というおかしな言い方では何を言っているのか意味が理解できない。それに 「一瞬の」 という表現はそもそも原文には全く無いものだ。おそらく、「わたしたちを病院や医師の診察室といった天国に追い込む」 という訳ではあまりに不自然すぎるので、落合は原文に存在しない 「一瞬の」 という言葉を付け加えてどうにかしようとしたのだろう。 もし落合に言葉に対する注意深さがもう少しあったならば、全て自力で訳したにせよ下訳を利用したにせよ 「わたしたちを天国に追い込む」 という訳文を得た時点で、さすがにこれは変だと考えて英文を読み直し誤読に気づけたのであろうが、結局それには思い至らず 「一瞬の」 という言葉を付け加えることで誤魔化そうとしたのだと言えよう。
あるいは、これは 《haven》《heaven》 を単に見間違えただけではないかといって擁護する見方もあるかもしれないが、そこを読み違えたまま不自然な訳文をこしらえて一向に気にならないのであるから何にせよ落合が言葉や文章に鈍感であることには違いがない。
 
次に、確かに辞書にはそういう説明も載ってはいるが、この 《distraction》 を 「気分転換」 と訳しているのも到底適切とは言えない。この訳語の選択から、仮に落合恵子が原著を読んでいたのだとしても満足に読んでいないということが判る。 「気分転換」 というのはしてはいけないことだろうか。落合は 「気分転換」 と 「空しい情事」 を同列に並べて何かおかしいとは感じなかったのだろうか。気分転換というのは別に悪いことや後ろめたいことではないだろう。
もちろん著者は一時のごまかしでしかないものとして否定的に 《distractions》 以下を記している。原文に 《more and more distractions》 とあるように、満たされることがないのに空しいその場しのぎをさらに重ねてしまう、という否定的な意味合いである。
《distraction》 は著者が否定的な意味合いで繰り返し用いている重要な概念である。ここでも決して好ましい意味合いでは用いられておらず、 「気を散らしてしまうこと」 という否定的な意味合いで用いられている。この場合は 「一時的に気を紛らわすこと」 や 「つまらない気晴らし」 といったところだろう。
  

対して、吉田健一の翻訳はこのように適切なものである。

それが私たちを更に多くの気散じの手段、或いはかりそめの恋愛、或いはまた病院や医者の診察室に追い込む原因の一部にもなっているのである。(p.53)

 
 
 

 第12回 女は被害者だと書き加えることは怠らない

落合恵子訳。落合の翻訳はすぐに落合の演説になってしまう。

女こそが、自分の内部に力を求めるという革命のパイオニアでならなければいけない。もともと女はそうだったのだ。数十年前までは、女は外的な活動から締め出されていた。その制約が女を内部に向かわせた。(p.57) 


まず細かな点を先に指摘しておく。アン・モロウ・リンドバーグは 「女こそが」などという気張った大袈裟な表現をしてはいない。落合女史は蓬頭を鉢巻できつく締め過ぎない方がいいのではないか。せめてもう少し自制した翻訳を心掛けたらどうかと思う。*1 
次に落合は 「女は外的な活動から締め出されていた。」 と訳しているのだが、これを読んだときに直ちに違和感を覚えた。アン・モロウ・リンドバーグが 「女は締め出されていた」 というような短絡的で抑制を欠いた表現を選ぶとは思えなかったからだ。


同じ箇所を吉田健一は次のように訳している。

女が、この我々の内部に力を求めるということの先駆をなさなければならない。女はいつもその先駆をしてきたとも言えるので、二、三十年前までは外的な活動に加わるのが難しかったために、そういう生活上の制約自体が女に注意を内部に向けさせた。 (p.55)

 
そして原文は次のように書かれている。著者は 「女は締め出されていた」 などと書いてはいない。

Woman must be the pioneer in this turning inward for strength. In a sense she has always been the pioneer. Less able, until the last generation, to escape into outward activities, the very limitation of her life forced her to look into inward. ( p.50)


わかりやすいように語順を以下のように並べ替え、後半部分を訳してみよう。

Until the last generation, less able to escape into outward activities, the very limitation of her life forced her to look into inward.

つい前の世代までは、女が外的な活動へ 《escape》 することは少なく、まさにその生活上の制約が注意を内部へと向かわせた。


まず 《escape》 という動詞をそのまま残して訳してみた。意外なことに原文の表現には 《escape》 という動詞が用いられている。だがここを単純に 「外的な活動へと逃げる」 と訳してみると文意が変になってしまう。
ここの 《escape》 は、 「液体や気体が漏れ出す」 という意味での 《escape》 だと解するのが適当だろう。訳すなら 「外的な活動へ自分自身が流れ出ることが少なかった」 とでもなろうか。


この 《escape》 の意味に気づいた時、そういうことかと唸った。この 「つめた貝」の章では、自分の内側にある泉が涸れてしまわないようにすること、そのために一人でいる時間、一人でいる場所を持つことの大事さが説かれている。そして描かれているイメージの一つは水を豊かに湛えた泉であって、 「満ちる」、 「溢れる」、 「涸れる」、 「こぼれる」 といった水や液体に関連した述語が比喩的に繰り返し用いられている。この 《escape》 もそういった言葉の一つなのだということ、そして著者アン・モロウ・リンドバーグは注意深くこの 《escape》 という言葉を選んだのに違いないということに思い至った。


「女は外的な活動から締め出されていた」 という表現は、その一文だけを取り出して見れば確かに間違いではないのだろう。 過去に女性が置かれていた状況というのは事実その通りだったとも言えるかもしれない。だがそうだとしても、著者は少しもそのようなことを言ってはいないのだ。 さらに言えば、原文は一つの文章だというのに落合はそれをわざわざ二つに分けてまでして 「締め出されていた」 という言葉を書き加えている。落合の訳文は明らかに自制を欠いており、著者が文章に込めたものを全く台無しにしている。 
 
 
 

*1:落合の『海からの贈りもの』の訳文には 「~こそ」 の濫用が見られる。これに気付いてざっと拾ってみたところ、一冊の中に少なくとも11箇所の「こそ」が見つかり、比較のため吉田健一の訳文を見ると、吉田訳では2箇所しか見つからなかった。 「我々こそが」、「今こそ」、こういった表現は煽りの表現だろう。鉢巻と拡声器が似合う。

 第13回 そんなに男が憎いのか

落合恵子訳は以下の通り。「攻撃力」とは一体何のことだ。

外に向かうエネルギーも人間にはなくてはならないものだが、それを追求した男たちのやりかた、攻撃力は、現在、問題の解決には用をなさなくなっている。(p58)

 

原文は以下の通りである。
落合の頭は一体どこから 「攻撃力」 などという Gift from the Sea の文章と全くそぐわない馬鹿げた言葉を思いついたのか。

This outer strength of man is essential to the pattern, but even here the reign of purely outer strength and purely outward solutions seems to be waning today. (p51)


そのすぐ後の訳文。 先のとは全く違う英語であるのに、これも同じように 「攻撃的」 などと訳している。

現代の、外側にエネルギーを発散させるだけの、攻撃的で、即物的な欧米の男たちが、(p58)


これの原文は以下の通りである。

modern extrovert, activist, materialistic Western man (p51)
 
落合が 「外側にエネルギーを発散させるだけの」 と全く否定的に訳した 《extrovert》 は、 「外向的な」 あるいは 「外向的な人」 という意味である。 また activist という言葉も、どうひねって解釈をしようとも 「攻撃的」 などという意味ではない。*1
 
 
吉田健一の訳文は以下のように適切なものである。
この吉田訳を一度ならず読んでいるというのに落合の訳文はあのように歪んだものになってしまっている。

男の外的な力も人間になくてはならないものであるが、その男の世界にも純粋に外的な力や、問題の解決の仕方は今日では用をなさなくなりつつある。 (p56)

 

現代の外向的で行動的な、唯物論的な欧米の男が (p56)

 
落合の翻訳ではまるで最低の男たちであるかのように読めてしまう。 「外側にエネルギーを発散させるだけの」 などと、何の恨みがあるというのか。一体どういう思考が 「攻撃力」 だの 「攻撃的」 だのといった根拠のない妄言をこの英文から思いつくことができるのか。そしてなぜ思い止まることなく実際にそんなデタラメを書いてしまうのか。

「攻撃的」 なのは落合自身ではないか。
 
 
 

*1:activist とはむしろ落合にこそ相応しい言葉だと思うが。

 第14回 一休み  「ひので貝」 ‐ 《Sunrise Tellin》

「ひので貝」 の章の原文表題は 《Double-Sunrise》 なのだが、本文中では単に 《sunrise shell》 と表記されていることの方が多い。
しかし、 《double-sunrise》 で検索すると何も見つからず、sunrise shellで検索すると本文中の描写とは大きく異なるもっと厚手で頑丈そうな貝の写真ばかりが出てくる。

あるときこちらのブログで、 「ひので貝」 と呼ばれる貝に相当するのはSunrise Tellinだろうと書いてあるのを目にし、それで検索してみると確かに文中の描写そのままの貝の写真が上がってきた。



《Sunrise Tellin》 *1


吉田健一訳『海からの贈物』より。

この、さわるだけで壊れそうな貝の両面は正確に対をなしていて、丁度、蝶の羽のように、両方とも模様が同じであり、二つを合わせている金色の紐帯から白い半透明の表面に、いずれも三本の薄紅の線が延びている。だから、私は二つの日の出を手に持っている訳で、 (p.61)

 
 
 

*1:写真はMyTurksAndCaicosBlog.com http://myturksandcaicosblog.com/?tag=sunrise-tellinより。

 第15回 すぐ前の文章と矛盾することを書く

まず落合恵子訳。

この島でわたしはあおい貝を見ながらそういう経験をした。
ひとりで一週間を過ごした後、妹がやってきて、次の一週間を共に過ごした。(p.105)


この落合の訳文を読んだとき、すぐにおかしいと感じた。というのは、著者アン・モロウ・リンドバーグは標本として見たことがあるというだけで実際にあおい貝を手にしたことはないのであり、そのことは当の落合の訳においてもちゃんと記されている。
以下の通りである。*1

あおい貝の、この仮の住まいをわたしは専門家のコレクションでしか見たことはないが、その生き方のイメージには、とても心魅かれるものがある。(p.97)


落合の訳した箇所は実際どうなっているのか、原文を読めば理解できる。少し前から引用する。

And though we may seldom come upon a perfect argonauta life cycle, we have all had glimpses of them, even in our lives for brief periods. And these brief experiences give us insight into what the new relation might be. On this island I have had such a glimpse into the life of the argonauta. After my week alone I have had a week of living with my sister. (p.90,91)


落合が無思慮に 「見ながら」 と訳した単語は 《glimpse》 であって、 「見ること」 には違いないが 「はっきりとではなく、ちらっと見ること」 を意味する。 「見ながら」 などという継続的な状態ではない。

この英文の大意は 「私たちに完璧な “あおい貝の生活” が訪れるということはめったにないにしても、その一端を窺えるようなちょっとした経験は誰にでもある。そういう経験が、人間関係の新しいあり方がどんなものであるかを示唆してくれる。この島で妹と一緒に過ごした一週間はそのような経験だった。」 ということなのであり、この 《glimpse》 は、実際にあおい貝の実物を手にして見たということではなく、 「あおい貝によって象徴される生活のあり方」 の一端を見たということである。

 
《I have had such a glimpse into the life of the argonauta.》

ここを訳せば、 「そのような“あおい貝の生活”の一端を見ることができた。」 といったあたりで、具体的には著者が島で妹と一緒に過ごした一週間の生活のことを指している。


こういう辺りから、やはり落合はちゃんと自分で原文を読んだ上で訳しているのではないという印象を受ける。吉田健一訳かあるいは出版社が用意した下訳に、自分の都合や趣味に合うように手を加えただけのように見えて仕方がない。


ところで落合はこの辺りに関して、[訳者あとがき] でこんなもっともらしいことを語っている。

また、本書が、多くの支持を獲得しながらも、特に日本においては、必ずしも著者が意図したような、拓かれた 「Woman's eye, Woman's voice」 の書として認知されてはいない*2という事実もあった。ここ十年ほど、季節の変わり目にこの本を開くたびに、 「リンドバーグ夫人」 という著者名が、正直気になっていたこともある。原書はもともと彼女のフルネームで発表されていたはずだが、日本で翻訳刊行された当初、 「リンドバーグ夫人」 という表記はやむを得ないものであったかもしれない。しかし、アン・モロウ・リンドバーグという個人名こそ、この著者には、この本にはふさわしい。そう、わたしは考える。また、原書と照らし合わせて翻訳を進める中で、たくさんの 「新しい発見」 もあった。(p.158)

  
「原書と照らし合わせて翻訳を進め」などと一見いかにも誠実そうな口ぶりであるが、実際に原書と落合の訳文を照らし合わせて読み通した人間にとっては、落合恵子のこの言葉は寸毫も信じるに値しない。*3
とは言え、知名度を当てにして選ばれた訳者が他人の翻訳をアレンジしてまとめるだけのやり方であったとしても、そのこと自体を批判するつもりは別にない。とにかく売れ行き商売を第一に考えなければならない出版社の事情もあるだろう。だが、これまで正しく理解されていなかったこの著作を私がいま本来の姿で読者に贈りたい、とでも言わんばかりの落合の物言いには強い憤りしか覚えない。図々しくも 「新しい発見」 などと言い出すとは。自分がアン・モロウ・リンドバーグの著作に対して一体何をしたのか落合は覚えていないのか。
 
 
 

*1:細かなことを言えば、「あおい貝を見ながらそういう経験をした」という日本語がそもそもおかしい。「〜しながら〜をする」というのは二つの行為の時間的な長さが大体同じであるのだ。翻訳以前に落合という作家はまず日本語がおかしい。

*2:落合は、著者アン・モロウ・リンドバーグがこの著作を拓かれた 「Woman's eye, Woman's voice」 の書として認知されることを意図していたと記しているが、そこに何らの典拠も示していない。試しに 「Woman's eye, Woman's voice」 で検索してみたのだが、関連するような記事は何一つ見つからなかった。もし関連する事実があるというなら落合女史に是非とも御教示を願いたい。

*3:あるいは熱意と努力の結果がこの有様で、単に落合の英文読解力が著しく低かったに過ぎないという可能性も一応考えるべきだろうか。